郵便学者・内藤陽介のブログ -3ページ目

 敗戦国ハンガリー

 第二次世界大戦の敗戦国というと、日独伊の三国を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は、“敗戦国”はそれだけではありません。1940年11月20日に日独伊三国軍事同盟に加わったハンガリーも“敗戦国”の一つとに数えられています。


 第一次大戦以前、現在のハンガリー地域はオーストリア・ハンガリー二重帝国の領域に含まれていましたが、オーストリア敗戦の結果、帝国はオーストリアとハンガリーに分割されたうえ、領土は大幅に縮小されました。このため、失地回復の機会を狙っていたハンガリーは、1939年に第二次大戦が始まると、快進撃を続けるドイツに期待を寄せ、ドイツと組むことで第一次大戦によって失われた失地の回復を目指したのです。


 しかし、戦争の結果、ハンガリーは敗戦国となり、その領土はソ連軍によって占領れ、次第に共産化されていきます。この間、ハイパーインフレが発生したこともあって、郵便史的にはいろいろと興味深いマテリアルが多数残されることになりました。


 その一例として、こんな葉書を引っ張り出してみました。


 ハンガリー混貼


 この葉書は、第二次大戦の終結後間もない1945年7月に使用されたものです。貼られている切手は、ソ連の占領下で加刷されたものですが、葉書は枢軸時代の1944年に発行されたものです。ソ連の占領が始まって間もない時期であったため、移行期間として枢軸時代の葉書の使用が認められていた時期のものなのでしょうが、おかげで、二つの時期の切手・葉書が混ざって貼られている、風変わりな葉書が出来上がったというわけです。


 その後、ハンガリーの郵便はハイパー・インフレの影響で料金が日々刻々と値上げされていくのですが、その間の郵便事情は、たとえば、j_deafさんのHP でご覧いただくことができます。


 とはいえ、同じように、ハイパー・インフレに覆われていた1920年代初頭のドイツに比べると、やはり、日本人でこの分野にチャレンジしておられる方は相当少ないようで、なかなか、<JAPEX>などの競争展示ではお目にかかる機会がありません。


 まぁ、僕自身はやりかけの仕事で手一杯なので、とてもハンガリーにまで手が回らないというのが正直なところなのですが、それでも、この時期のハンガリーで発行された世界最高額面の切手が実際に郵便に使われたサンプルなんてのは、ぜひとも、話の種に手に入れたいものだと前々から思っているのですが…。


 アラブの都市の物語:マラケシュ

 昨日のブログでは、NHKラジオ中国語のテキスト(僕は「外国切手の中の中国」という読物を連載しています)の最新号が発売になったことを書きましたが、NHKの語学テキストは毎月18日に一斉発売となります。したがって、隔月刊で今月が刊行の月に当たっているアラビア語のテキストも、同時に発売となり、掲載誌が自宅に送られてきました。以前の記事にも書きましたが、アラビア語のテキストでは、僕は「切手に見るアラブの都市の物語」という連載を持っています。で、その最新号はマラケシュ(モロッコ)。たとえば、こんな切手を使って、マラケシュの歴史をご紹介しています。

マラケシュ


 この切手は独立後まだ日も浅い1960年にモロッコが発行したマラケシュ創建900年の記念切手です。


 通常の歴史書などでは、ムラービト朝の君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンがマラケシュの建設を始めたのは西暦1071年のことと記されていますが、この切手の場合は、本格的な都市建設の前にユースフがこの地にたどり着いたことから起算して、1060年を基準に900年としたのでしょう。ちなみに、ヒジュラ暦(イスラム暦)の年号では454~1379年となっており、年号のカウントは900年を超えています。


 現在のモロッコの地名はマラケシュのなまえが訛ったものですが、このマラケシュという言葉は、ベルベル語の“マロウクシュ(早く歩け)”に由来するといわれています。これは、マラケシュの本格的な都市建設が始まる以前は、この地で略奪行為が横行していたため、早く通り過ぎたほうが良い土地と人々が読んでいたためだそうです。


 その後、ムラービト朝をはじめ、モロッコ諸王朝の首都となったマラケシュは都市のインフラが整備され、サハラ交易の拠点として繁栄。往時をしのばせる建造物が数多く残る古都として、1985年には世界遺産にも登録され、世界的な観光地として、連日、観光客でにぎわっています。


 切手の中央の尖塔はマラケシュのランドマーク、クトゥビーヤ・モスクのミナレットで、周囲の椰子の木と山脈がなんともいえないエキゾチックな雰囲気をかもし出しています。この時期の切手は、まだ旧宗主国のフランスで作られていたため、いかにもフランス風の瀟洒な凹版印刷とデザインがよくマッチしており、とても綺麗な切手に仕上がっていて、僕の個人的な好みとしては、結構お気に入りの1枚です。


 NHKのアラビア語テキストでは、どうしても図版がモノクロなので、この切手の美しさが上手く伝わりませんので、ブログで取り上げてみました。なお、マラケシュの歴史やそれにまつわる切手について、より詳しいことがお知りになりたい方は、是非、『NHKアラビア語会話』の12・1月号の僕のコラム「切手に見るアラブの都市の物語」をご一読いただけると幸いです。


 パンダとコアラ

 NHKのラジオ中国語のテキストの最新号が発売になりました。以前にも書きましたが、このテキストの読物ページで、僕は「外国切手のかなの中国」と題する連載を持っています。で、今回は↓の切手を題材に最近の豪中関係について説明しています。


 オーストラリア


 この切手は、今から10年前の1995年に豪中両国がおなじ図案で共同発行したもので、両国の友好親善を深める意図が込められているのは誰の目にも明らかです。


 経済成長著しい中国と資源大国オーストラリアとの関係は、近年、急速に緊密になっています。経済成長のために必要な資源を確保したい中国側と、新たな“お得意さん”を大事にしたいオーストラリア側の思惑が一致しているためです。


 それだけなら、取り立てて言うことはないのですが、そうした経済的な関係をてこに、中国がオーストラリアを政治的にも取り込もうとしている点は見逃せません。


 中国の対豪政策の究極の目標は、アメリカに対抗するため、ヨーロッパにおけるフランスのように、オーストラリアをアジア・太平洋地域においてアメリカに対してNOといえる国に育てることにあります。また、国際的な非難を浴びている中国国内の人権抑圧に関して、中国側の主張を擁護してくれる“味方”としてオーストラリアを取り込むことができれば、これまた大きな得点になります。


 現時点では、中国の期待するように、オーストラリアがアメリカに対してNOといえる国になっているわけではありませんが、それでも、現在のオーストラリア政府は中国の国内事情に相当の“配慮”を示し、2003年に胡錦涛がオーストラリアを訪問して議会で演説した際、中国の人権抑圧に批判的な議員が議場に入ることを許可しないという、かなり乱暴なことをしています。


 こうした対応について、当然、中国側は「わが国の考えがオーストラリアに浸透する良い兆候だ」と歓迎していますが、オーストラリア国内では批判も少なくありません。ただ、現実には、経済的な実利の前に、オーストラリア政府の対中姿勢を批判する声は、同国内では必ずしも目立ったものとはなっていないようですが…。


 今回ご紹介している切手は、そうした現在の豪中関係の出発点に当たる時期に発行されたもので、『ラジオ中国語』の連載「外国切手の中の中国」では、その辺の事情を詳しく説明しています。よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。


 奇跡の出来栄え

 今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日です。というわけで、“収穫”に関するフランス関連のマテリアルということで、こんな1枚を引っ張り出して見ました。


 スペラッティのセレス


 フランス最初の切手は1849年に発行されました。デザインは豊穣の女神セレスです。セレスを描いた最初のシリーズは1849年から翌1850年にかけて発行されましたが、このうち、黄緑色の15サンチーム(100サンチーム=1フラン)は1850年の発行で、手元の古いスコット・カタログによると未使用で8500ドル、使用済みで875ドルという評価がついています。


 こういう風に書くと、上の画像がそのセレスの15サンチーム切手のように見えてしまうんですが、実は、これはホンモノの切手ではありません。とはいっても、凡百のニセモノではなく、稀代の天才“切手模造家”として名をはせたジャン・ド・スペラッティの“作品”です。

 

 スペラッティは、1884年、中部イタリアのピストイアに生まれました。もともと、模写の際にすぐれていたことに加え、化学や写真の知識が深かった彼は、切手商でもあった兄の影響から切手収集にも関心を持ち、切手の模造に手を染めるようになったといわれています。


 彼の模造は、1942年、彼の“作品”がフランス税関によって摘発されたことで明るみに出ました。すなわち、スペラッティの精巧な“作品”を高価な切手の真正品と誤解した税関側が、それらに課税しようとしたところ、彼は自分が“作品”をつくったことを主張。裁判の過程で、彼の“作品”は何度か真正品との鑑定が下されますが、彼は摘発を受けたものと同じ模造品を再度作成して裁判所に提出。結局、1948年になって、彼の“作品”は精巧な模造品であることが認められました。


 彼の“作品”は、たとえば、模造のターゲットとなった切手と同時代の安価な切手の印面を拭い去るなどの方法で同時代の用紙を調達した上で、デザインや刷色を精巧に模写し、さらに、必要があれば、ホンモノそっくりの消印まで押すという代物でした。結局、350点以上にも及ぶスペラッティの“作品”は、1954年、今後新たな“作品”を作らないという条件で、英国郵趣協会が引き取っていますが、その精巧な出来栄えゆえに、名のあるニセモノとして収集家のマーケットでは決して安くはない値段で取引されています。


 今回、ご紹介している切手も、そうしたスペラッティの“作品”の一つで(裏面には彼のサインが入っています)、真正品に比べてマージンが広いことを除けば、見事な出来栄えです。


 今年のワインはできの良さから“奇跡のヌーボー”とされているそうですが、さてさて、スペラッティの“作品”同様、ほんとうに奇跡の出来栄えを味わうことが出来るのかどうか、仕事が終わった後の夕食の時間が待ち遠しくてなりません。

 上空からの視線

 昨日の内親王殿下(もはや“黒田清子さん”とおよびすべきなのでしょうか)のご結婚に際して、NHKが宮内庁の自粛要請を無視してヘリコプター取材を行い、結婚会見から締め出されていたことが問題となっています。


 この件に関して、NHK側は「警視庁が設定した飛行自粛要請区域の外側からの取材は可能と判断していましたが、宮内庁の自粛要請に沿わない形になり、関係者の方々にご迷惑をおかけしました」とのコメントを発表していますが、NHKの言っている通り、取材が飛行自粛要請区域の外側から行われたのであれば、理屈の上では何も問題ないはずで、自粛要請区域の設定が甘かった警視庁の責任の方が大きいように思います。また、宮内庁側も、自粛要請を出すのであれば、ただ「上空からの撮影を自粛して欲しい」というだけではなく、たとえば、「警視庁の指定区域の外であっても、ヘリコプターのプロペラ音が関係者の耳に入る距離には入らないで欲しい」などの具体的な指示を出すべきだったのではないでしょうか。


 「どんなに離れていようと皇族を上空から撮影すべきではないのは常識だ」という主張は、そうしたことを“常識”として共有できる人間の間でだけ通用する理屈でしかありません。NHKにそうした“常識”があるのか否かは別として、規制の範囲外のことは、何をされても文句は言えないというのが法治国家の大原則なのですから、充分な対策を講じなかった側が一方的に“被害者”を装うことには、僕は、なんとなく割り切れない思いを感じます。ただし、殿下の車列を上空から撮影することが、今回のご結婚の報道にとってそれほど意味のあるものとは、僕には到底思えませんが…。


 もっとも、皇族や皇室関連の施設を上空から見下ろすことが非常識であるという主張は、戦前期の日本では、案外、やかましくいわれていたわけではないようです。たとえば、この切手を見ていただきましょう。


 大正大礼


 この切手は、1915年に行われた大正天皇の即位の大礼にあわせて発行された記念切手ですが、儀式の模様(予想図ですが)はしっかりと上空から見下ろす視点で描かれています。昭和以降の皇室切手では、原則として、皇室関係の題材は、正面から、もしくは見上げる視点で描かれていますから、あきらかに、切手制作の発想が異なっています。なによりも、国家が公式に発行する切手において、予想図とはいえ、即位の大礼を見下ろす画面構成が採用されているわけですから、当時の日本政府の感覚は、我々が考えるよりもずっと“リベラル”だったことがうかがえます。おそらく、現在ではこのようなデザインの切手を発行することは、まず不可能でしょうが・・・。


 いずれにせよ、我々は“戦前”というと、どうしても昭和10年代のヒステリックな時代のイメージでひとくくりにしてしまいがちですが、実際には、もっとおおらかな時代もあったということは覚えておく必要がありそうです。


 なお、 10月に刊行した拙著『皇室切手 』では、現在よりも、明治・大正期のほうが、ある意味ではるかに“皇室”の扱い方がおおらかだったことを明らかにしていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 ご結婚おめでとうございます!

 今日はいよいよ、紀宮内親王殿下のご結婚の日です。一人の日本人として、純粋に殿下のご結婚を寿ぎ、お2人のお幸せをお祈りしたいと思います。


 というわけで、今日は難しい理屈は抜きにして、この切手をご紹介しましょう。


 ホンジュラスの紀宮切手


 この切手は、今年(2005年)の8月、ホンジュラスが日本との外交関係樹立70年を記念して発行したセットの1枚で、同時に発行されたものの中には、小泉首相の所信表明演説ですっかり有名になった「米百俵」の演劇も取り上げられています。


 ホンジュラスがこの切手を発行したとき、一部のマスコミでは、ジャパン・マネーを狙った外貨稼ぎの“いかがわしい切手”の類であるかのような報道がなされました。たしかに、ホンジュラス側に、この切手を内親王殿下のご結婚にあわせて日本人に買ってもらおうという意図が全くなかったといえば嘘になるでしょう。


 しかし、殿下は2003年にホンジュラスをご訪問されており、両国の友好親善に功績を残された方です。純粋に両国の友好親善のシンボルとして、ホンジュラス側が殿下の肖像を切手に取り上げたいと考えても、それは自然な発想のように思われます。ちなみに、「米百俵」は、現地の日本大使からこの物語のことを聞いたホンジュラスの大統領がいたく感激し、大統領の肝いりで同国でスペイン語版の劇が上演され、ホンジュラスをご訪問になった殿下ご本人も現地でこの芝居を鑑賞されており、やはり、両国の友好親善の象徴として切手に取り上げられたというわけです。


 なお、2003年、殿下はホンジュラスとあわせてウルグアイも訪問されていますが、この辺の事情については、8月25日の記事 をご参照いただけると幸いです。


 10月に刊行した拙著『皇室切手 』では、制作期間中には、今日のブログでご紹介しているホンジュラスの切手は実物の手配が間に合わず、泣く泣く、報道資料のカラーコピーを図版として利用しましたが、今日は、実物からの画像をお見せします。拙著を補うものとしてご覧いただけると幸いです。

 和製チンギスハン

 大相撲の九州場所が始まりましたが、今場所もまた朝青龍の優位は揺るがなさそうです。

 

 で、朝青龍の出身国・モンゴルといえば、なんといってもチンギスハンが最大の英雄ですが、そのチンギスハンにまつわるものの中で、ちょっと毛色の変わった“切手”をご紹介しましょう。


 チンギスハンのエッセ


 これは、日中戦争の時代、日本軍の占領下の内蒙古で作られた蒙古連合自治政府(蒙疆政権)が発行しようとした切手の試作品で、実際には切手として発行されることはありませんでした。


 1930年代の内蒙古では、モンゴル族の王族である徳王を中心に中国からの分離・独立を求める動きがありました。彼らは、“敵の敵は味方”のロジックに基づいて日本に接近しますが、日中戦争が始まると、日本軍の占領下で親日政権を樹立します。当初、親日政府は、察南・晋北・蒙古連盟の3自治政府に分かれていましたが、1939年9月、蒙古連合自治政府として統合されます。そして、この統一政権の自立性を内外にアピールする目的で、今回ご紹介しているチンギスハンの像をはじめ、さまざまなデザインの“切手”の製造が、日本の民間印刷会社であった日本精版に発注されました。


 こうして、日本精版は試刷品をつくるのですが、1941年に太平洋戦争が始まり情勢が悪化したことや、同じく日本占領下の親日政権であった南京の汪兆銘政府の抗議(汪兆銘政府のみならず、蒋介石の国民党も毛沢東の共産党も、内蒙古は中国の不可分の領土であることを主張していた)、蒙疆政権側の担当者の交代などにより、この試刷品は陽の目を見ずに終わっています。


 そういえば、戦前、日本が“満蒙”の権益を主張していた時代には、平泉で討ち死にしたとされる源義経が大陸に渡ってチンギスハンになったという伝説(この伝説そのものは、江戸時代の歴史書にも登場する)が盛んに喧伝されていたことを思い出しました。僕は見ていないのですが、イマイチ、人気が盛り上がらないとされる大河ドラマの「義経」も、いっそ、朝青龍の勢いにあやかって、最後はチンギスハンになるというオチをつけて見たら面白いかもしれません。フィクションと割り切ってしまえば、目くじらを立てる人もいないでしょうし、それなりに見ごたえのあるものができるようにも思うのですが…まぁ、そういうことはやらないんでしょうけどねぇ。

 カリグラフィ

 昨日は『コーランの新しい読み方』(晶文社)のカバーを取り上げ、そこに取り上げた切手にはコーラン第48章第29節(ムハンマドはアッラーの使徒である。彼と共にいる者は不信心の者に対しては強く、挫けず、お互いの間では優しく親切である)が記されていることをご説明しました。


 イランは、コーランのこの章句を、翌1987年の切手にも取り上げているので、両者を並べてみましょう。


 コーラン(1986年)    コーラン(1987年)


 1986年の切手がこの章句の主要な部分を3行に分けて書いているのに対して、1987年の切手では円形にレイアウトしているという違いはありますが、どちらも、アッラー(神)の文字を頂点に置き、神から啓示が下っているという基本的な構造は共通しています。


 ムスリム(イスラム教徒)にとって、コーランの章句は神の言葉ですから、それを書き記す文字も神の言葉にふさわしく美しいものでなければならないとの考えから、書道が発達しました。(なお、偶像崇拝が厳格に禁止されたため、絵画・彫刻が敬遠されたという背景事情も否定はできませんが…)


 こうしたことから、イスラム諸国の切手には、さまざまなカリグラフィ(書道)が取り上げられることが少なくありません。もっとも、現在の切手に取り上げられるカリグラフィの中には、コーランとは無関係な書道芸術の作品も少なくないのですが、さすがに、“イスラム共和国”を名乗っているイランで発行されるカリグラフィの切手は、コーランの章句を題材としたものが主流を占めています。


 今回ご紹介している2点もその一部で、コーランの内容をストレートに表現したものとして、1986年の切手を『コーランの新しい読み方』の表紙に使いました。


 欲をいうと、『コーランの新しい読み方』では、コーランがアラビア語であることをふまえて、できれば、アラブ諸国で発行された切手を使いたかったのですが、かの国々にはあまり良いものがなかったのでしかたありません。まぁ、この点を他人様から突っ込まれることがあったら、「中世のイスラム全盛期に活躍した文化人の相当部分は、アラビア語を外国語として学んだイラン系の人たちだったから、イランの切手でも問題はないのだ」と開き直ってみることにしましょう。


 コーランの新しい読み方

 11月15日(来週火曜日)に、内藤あいさ(偶然同姓ですが、血縁・姻戚関係はありません)さんとの共訳で『コーランの新しい読み方』と題する翻訳書を刊行します。すでに見本は出来上がっていますから、一部の書店などでは、この週末に実物をご覧いただけることがあるかもしれません。


 原著は、コレージュ・ド・フランスの元教授でコーランのフランス語全訳者としても知られるジャック・ベルク(1995年没)が、一般向けの市民講座で語った“イスラム入門”といった趣の連続講演を1冊にまとめたものです。フランスでは、現在、北アフリカ系の移民の暴動が続いていますが、かの国でイスラムと真摯に向き合おうとしてきた知識人が、どのようにイスラムのことを理解し、人々に説明してきたかを理解する上で、格好の1冊と思いますので、今こそぜひともお手に取っていただきたいと思います。


 さて、当初、今回の翻訳書には「切手の中のコーラン」とでも題したコラムを適宜挿入しようかとも考えていたのですが、時間的な余裕がなくて断念しました。その代わりといっては何ですが、表紙カバーには、1986年にイランが発行した切手を、↓な感じでレイアウトしてもらいました。


 コーランの新しい読み方


 切手のデザインは、モスクの屋根を背景にコーラン第48章第29節(ムハンマドはアッラーの使徒である。彼と共にいる者は不信心の者に対しては強く、挫けず、お互いの間では優しく親切である)がカリグラフィで配されています。


 もっとも、本書の内容は“切手”とは全く無関係なので、カバーに切手を持ってきたところで、なんとか“郵便学者・内藤陽介”の看板にこじつけることができたというわけです。まぁ、内藤も、たまには切手以外の仕事をすることがあるのだ、と思って温かく見守っていただけると幸いです。


 ちなみに、みすず書房から出版されたサイードの『パレスチナ問題』も、中身は切手と関係ありませんが、カバーには切手がいくつかアレンジされています。いつか“中東切手展”などというイベントをやる機会があったら、今回のベルクの本と並べて会場で売ってみようかな、とぼんやり考えています。

 ありがとうございました

 

 反米展


 11月1日から東京・白金の明治学院インブリー館にて開催しておりました個展「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」は、昨日(10日)をもって無事終了いたしました。会場にお運びいただきました皆様、本当にありがとうございました。


 10日間の会期中、当初の予想(700~800名)を大きく上回る1032名ものお客様をお迎えすることができたことに加え、多くのお客様から、「切手がこんなに面白いものとは知らなかった」「切手が歴史の証人であることがよく分かった」などの好意的なご感想を多数いただき、非常に喜んでいます。


 上の写真画像では若干分かりづらいかもしれませんが、今回の展示はインブリー館という重要文化財の洋館の一室を会場に、市販のA1版アルミ・フレームにグレーのラシャ紙を敷いてその上にマテリアルを配置したものを、イーゼルに立てかけて展示するという方式を採っています。


 いわゆる切手展の展示というと、どうしても、切手収集家の世界では、ほぼA4の大きさのリーフにマテリアルを貼ったものを、専用のフレームに複数入れた“作品”を展示するものと考えてしまいがちです。しかし、40年くらいまでは全日本切手展(全日展)でもパネル形式の展示で行われていたわけですし、そもそも、「リーフとはなんぞや」という感覚をお持ちの非収集家の方々向けの展示はこのスタイルでも支障はないものと思います。


 また、今回利用したアルミ・フレームはごく一般的に市販されているもので、定価で1枚3000円程度。量販店で買えばもっと割安に入手することができます。取扱は簡単ですし、見栄えという点でも、ポケット式のビニールパネルよりもはるかに良いと思うのですが、いかがでしょうか。


 これまで、収集家や収集家の団体が開催する地域の小規模な切手展というと、郵便局を借りてビニールフレームにリーフを並べるというスタイルが多かったように思います。そういう展示が悪いとは言いませんが、会場が郵便局に限定されてしまうと、どうしてもお客様の層も限定されてしまうように思います。切手の面白さ・奥深さをより多くの人に理解してもらうためには、新たな層に切手を見てもらわなければならないわけですから、郵便局以外の会場、たとえば、学校の空き教室や喫茶店などを切手展の会場として視野に入れて検討する必要があるように思います。


 その意味で、今回の個展は、郵便局以外の場所で個人が切手展を開催する時の一つのテストケースを収集家の皆様にご提案したという面があります。重要文化財の一室を利用するということはなかなか難しいのですが、①郵便局以外の場所を使う、②従来型のリーフ・フレーム展示スタイルをやめて、普通の人が普通に利用できるハードを使って展示する、③会場内にテーブルと椅子を設けてお客様とゆっくり話をしたり、お客様が切手関係の本を落ち着いて読むことができるようにする、といった点は、何らかの参考にしていただけるのではないかと思います。


 今回の僕の個展が一つのきっかけとなって、今後、たとえば地域の中学・高校(まぁ、さすがに小学校では無理でしょうね)の文化祭にあわせて空き教室で一般の人にも理解してもらえるような切手の展示パネルが並べられたり、あるいは、喫茶店の壁を利用して切手を並べた額がいくつか掲げられたりするなど、新しいスタイルの“切手展”が広がっていけば、僕としては、これほど嬉しいことはありません。


 なお、最後になりましたが、今回の個展開催にあたり多大なご尽力をいただきました明治学院大学関係者の皆様、特に、図書館の松岡良樹様には、この場を借りてあらためてお礼申し上げ、「反米の世界史」展が無事に終了したことのお礼とご挨拶に代えさせていただきます。


 ありがとうございました。