郵便学者・内藤陽介のブログ -2ページ目

 (戦時下のクリスマス)バルカン・1917年

 第一次大戦の発端となったサライェボ事件は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア人青年に暗殺されたものでした。このため、大戦の勃発間もない1914年8月~12月、オーストリアはセルビアへの侵攻作戦を行います。


 これに対して、セルビアは抵抗し、オーストリア軍を撃退しますが、最終的に、ドイツ、オーストリア、ブルガリアの同盟軍に降伏。以後、セルビア兵はアルバニアとギリシアで抵抗を続け、英仏軍がそれを支援するという構図ができあがります。


 こうした状況の下で、1917年のクリスマスにイギリス兵が差し出した葉書が↓の1枚です。


 バルカン


 詳しいことが調べきれなかったのですが、結構、よく見かける葉書なので、そこそこポピュラーな葉書なのではないかと思われます。兵士がまたがっているのは、馬ではなくロバでしょうか。「バルカンからハッピー・クリスマス」の挨拶文も印刷されています。全体にヨーロッパの田舎を思わせるのどかなデザインですが、その背後では激戦が繰り広げられていたものと思われます。


 1914年の夏に第一次大戦が始まった当初、多くの人々は、その年のクリスマスまでには戦争は終わるものと楽観的に考えていました。しかし、実際には、戦争は1915年にはいると激しさを増し、結局、1918年まで延々4年も続いてしまいます。で、この葉書が差し出された1917年は、大戦中最後のクリスマスカードということになるのですが、差出人の兵士は、無事、翌年のクリスマスを故郷で過ごすことができたのでしょうか。ちょっと、気になるところです。

 パレスチナはアラブのものだ!

 今日(11月29日)は、1947年に国連でパレスチナ分割決議案が採択された日です。


 第一次大戦以来、パレスチナではアラブ系住民とユダヤ系移民の対立が続いていましたが、第2次大戦で疲弊し、完全に当事者能力を失ったイギリスは、自らの責任を放棄して問題の解決を一方的に国連に委ねてしまいます。その国連が出した解決案が、パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、エルサレムは国連の管理下に置くというものでした。


 当時、パレスチナ地域の人口の大半はアラブ系でしたが、国連の決議案では、“ユダヤ国家”に割り当てられる地域は全体の約2分の1に設定されていました。しかも、その中には、沿岸部の豊かな地域も含まれています。当然、アラブ側はこの決定に不服でした。


 この結果、国連決議をたてにユダヤ国家樹立を既成事実化したいユダヤ系、それを阻止したいアラブ系の対立は激化し、1947年末には、パレスチナは事実上の内戦に突入。1948年5月のイギリスの撤退にあわせて、イスラエル国家の建国が宣言され、それを阻止しようとするアラブ諸国の介入で第一次中東戦争が勃発することになります。


 この間の複雑な事情は郵便の上にもさまざまな影を落としており、いろいろと面白いモノが残されているのですが、その中から、今日はこんなものを引っ張り出して見ました。


 パレスチナはアラブのものだ


 このカバー(封筒)は、上述のような混乱の最中にあった1948年2月、パレスチナのベツレヘムからアンマン宛に差し出されたものです。当時は、まだ、パレスチナの主権者はイギリスでしたから、イギリス当局の発行したパレスチナ切手が貼られています。


 で、ご注目いただきたいのは、カバーの左側に貼られているラベルで、パレスチナの地図を背景にエルサレムの風景を描き、「パレスチナはアラブのものだ!」のスローガンが入っています。もともと、このラベルは1930年代に作られたものですが、国連による分割決議に抗議して、差出人が郵便物に貼ったのでしょう。


 分割決議からイスラエル建国までの過渡的な時期に関しては、ユダヤ側のマテリアルは豊富に残っているのですが、アラブ側のマテリアルで気の利いたものはあまり見かけません。それだけに、このカバーは、バランスの取れたコレクションを作るうえで、ちょっとしたアクセントになるので気に入っています。


 年明け早々、東京・目白の<切手の博物館 >で中東切手展というのをやる予定です。現在、何を展示しようかと思案しているところですが、もしかすると、このカバーも展示することになるかもしれませんが、さてさて、どうなりますやら。

 (戦時下のクリスマス)泰緬鉄道・1943年

 一昨日のブログ では、第二次大戦中のドイツのクリスマスカードをご紹介しましたので、今日は、アジアの戦場から差し出されたこんな1枚を引っ張り出してみます。


 泰緬クリスマス   泰緬クリスマス(文面)


 この葉書は、第二次大戦中、泰緬鉄道の建設に動員されたオランダ人俘虜が差し出したものです。裏面(右側の画像)には、With best wishes for a cheerful Christmas!の一文が印刷されており、1943年のクリスマスを前に、俘虜たちに配給され、使用されたことが分かります。


 葉書表面には泰俘虜収容所第三分所の担当者が検閲済の印を押すスペースがありますが、この第三分所というのは、泰緬鉄道の建設中はビルマ地域におかれていましたが、1943年10月に工事が終了するとタイのニーケに移転しています。したがって、この葉書も、ニーケから差し出されたものということになります。


 検閲を受けた日付は、昭和19年1月13日。ナチス占領下のオランダに届けられた時には(ナチス・ドイツの検閲を受けたことを示す赤い印が押されています)、クリスマス・シーズンは終わっていたはずですが、葉書を受け取った家族にとっては、ともかく差出人が無事に生きていることが確認できただけでも何よりのプレゼントだったのではないでしょうか。


 まさに、「戦場のメリークリスマス」を地で行くような1枚です。


 * 一昨日の記事とあわせて、“戦時下のクリスマス”というコーナーを作りました。これから、クリスマスまでの間に、いくつか、関連の記事をまとめることにしました。まぁ、すぐには無理でしょうが、何年かかけて充分にモノが集まったら、いずれ、単行本としてまとめるなり、個展を開くなりしてみたいものです。ブログの記事は、そのためのファースト・ステップのつもりで、これから何年かは、毎年、この時期に書き溜めていこうと思っています。

 本家のチンギスハン切手

 お相撲は、結局、千秋楽を待たずに朝青龍の優勝が決まりました。やっぱり強いですねぇ。


 で、朝青龍の祖国モンゴルといえばチンギスハンということで、以前 、日本占領下の中国・内蒙古地区で準備されたものの、発行されずにおわった“幻の切手”のことをご紹介しましたが、今日はこんなものを取り上げてみます。


 チンギスハン


 これは、1962年、チンギスハン生誕800年を記念して、社会主義時代のモンゴルで発行された4種セットの切手の1枚で、チンギスハンの肖像が大きく取り上げられています。


 社会主義政権時代の歴史は、ひとことでいえば、チンギスハン以来の自国の栄光を否定する歴史でした。


 1921年の革命を経て、1923年に誕生したモンゴル人民共和国は、世界で二番目の社会主義国=ソ連の衛星国として、国民に単一のイデオロギーを強制します。これに伴い、伝統的な宗教や文化は迫害され、モンゴル語は、伝統的なモンゴル文字ではなく、キリル文字(ロシア文字)で記述されるようになりました。


 こうした状況の中で、民族の英雄チンギスハンは、“民族主義”の象徴であると同時に、ロシアや中国を征服した“侵略者”として、社会主義政権にとって最大のタブーになってしまいます。このため、チンギスハンへの愛着を拭い去れない多くの国民は、面従腹背の生活を強いられていました。


 さて、1956年、フルシチョフがスターリン批判を行い、ソ連が柔軟路線をとるようになると、モンゴル国内では、“民族主義”に対するソ連の圧力が緩むのではないかとの期待が高まります。そして、1962年、モンゴル国内では、ソ連を刺激しないよう、純粋に学術的・文化的な分野に限定して、チンギスハン生誕800年の各種記念行事が企画されます。今回ご紹介している切手も、その一環として発行されたものです。


 しかし、純然たる学術研究の目的に限定して行われたチンギスハン生誕800年の記念シンポジウムの席上、ソ連からは祝電ではなく、“不快感”をあらわにした電報が届けられます。“宗主国”の不興を買ったことに慌てたモンゴル政府は、さっそく、各種行事の責任者であった政治局員、トゥムルオチルを解任。さらに、行事に関与した学者や文化人が多数、粛清されました。


 当然のことながら、記念切手の販売もただちに中止され、手持ちの切手を郵便に使用することも禁じられました。特に、4種セットのうち、チンギスハンの肖像を描いた切手は、モンゴル国内の切手収集家や切手商の間からも完全に姿を消し(所持していることが分かると、処罰の対象とされたという)、“幻の切手”といわれるようになりました。


 ただし、これらの切手は廃棄されてしまったわけではなく、モンゴル郵政の関係者は、チンギスハンが復権する日を夢見て、ひそかに切手を保管し続けました。そして、それは1989年に劇的な復権を果たすのですが、その辺の事情については、次に朝青龍が優勝した時にでもご説明することにしましょう。

 (戦時下のクリスマス)ドイツ・1941年

 いよいよ、クリスマスまであと一月を切りました。


 昨日(25日)は、僕が週1コマ、非常勤で授業を担当している明治学院でもクリスマス・ツリーの点灯式がありましたし(僕はあいにく、参加しそびれましたが)、今日、拙宅に届いた雑誌『郵趣 』にはクリスマス切手の特集も組まれていました。ここ2~3日で、街中のクリスマス色も一挙に濃厚になったようです。


 というわけで、クリスマス・ツリー関係の何か気の利いたブツがないかと思って引っ張り出してきたのが、この1枚です。


 ドイツ 1941年


 この葉書は、第二次大戦中の1940年のクリスマスに際して、インゴルシュタット駐留のドイツ軍兵士が差し出したものです。ドイツ兵の守るモミの木の後ろには母子の姿が描かれており、国民の安全を守る軍のイメージをクリスマス・バージョンで表現したといった雰囲気があります。


 葉書が差し出されたインゴルシュタットはドイツのバイエルン州にあり、フランクフルトの東南およそ250km、ミュンヘンからはほぼ真北に120km、シュトゥットガルトからは東におよそ170kmの地点に位置しています。道路交通 の便が良く、長年にわたり、軍の駐屯基地として機能してきました。この葉書を差し出した兵士も、駐屯地で軍務についていた一人だったのでしょう。なお、第二次大戦後は、アウディの本拠地として、メルセデスやポルシェの本拠地となったシュトゥットガルトとともに、ドイツの自動車産業の重要な拠点となりました。


 1940年という年は、ドイツ軍が電撃作戦を展開して欧州を席捲した年でしたから、葉書の差出人にとっても、この年のクリスマスはさぞかし気分の良いものだったでしょう。しかし、1941年6月、ドイツはソ連に進攻し、独ソ戦が始まります。最初のうちは破竹の進撃を続けていたドイツ軍でしたが、冬の訪れとともにソ連軍の反抗が本格化し、次第に追い詰められていきました。ちなみに、日本が真珠湾攻撃を行い太平洋戦争が勃発した1941年12月8日は、それまで無敵を誇ったドイツ軍がモスクワ攻略をあきらめて撤退を開始した日でもあります。


 さて、今日のブログを書くためにいろいろと手持ちのストックを探していたら、ちょっと面白そうなクリスマス関連のブツがいくつか出てきました。まぁ、せっかくの時季モノですし、今日から何回かに分けて(不定期で)、ご紹介してみるのも悪くないかもしれません。しばらく、似たようなネタが続くかもしれませんが、よろしくお付き合いください。

 顔を汚さない工夫

 “皇室典範に関する有識者会議”が皇室典範改正問題に関して「女性・女系天皇は不可欠」との結論を出しました。この報告書どおりに皇室典範が改正されると、おそらく現在38歳の僕が生きている間に、日本にも女性天皇が誕生する可能性が大いに出てきました。


 まぁ、そのときになって、切手や郵便が現在のようなかたちで生き残っているかどうか(生き残っていて欲しいのですが)、ちょっと不透明なところもありますが、仮に、女性天皇が誕生した場合、僕としてはやはり“女王”の肖像を描いた切手を発行して欲しいものだと思います。


 そもそも、1840年にイギリスで発行された世界最初の切手はヴィクトリア女王の肖像だったわけですし、“女王様”の切手は各国からさまざまなものが発行されています。現在、東京・目白の<切手の博物館 >で開催中の企画展示「世界の女王様」が実現できたのも、“女王”を戴いたことのある国が少なからずあり、そうした国がいろいろな切手を発行しているからにほかなりません。


 さて、そうした“女王様”切手の中から、今日は、こんな1枚を取り上げてみました。


 スペイン1850年


 このカバー(封筒)は、1850年にスペインで使われたもので、当時の国王イザベル2世の肖像を描く切手が貼られています。今回は、切手そのものよりも、切手に押されている消印にご注目ください。中央が空白になっており、女王の肖像を(できるだけ)汚さない工夫がされているのがお分かりかと思います。


 郵便物の料が現在ほど多くはなかった19世紀には、郵便に使われた切手の再使用を防ぐための“抹消印”と、郵便物を引き受けた場所や日時を示す“証示印”を別個に押す(このカバーの場合、不鮮明ではありますが、切手の右側に赤い証示印が押されています)ということがしばしば行われていました。今回のケースでは、そうした二つの消印の特性を生かして、抹消印のほうを工夫して、切手の肖像をできるだけ汚さないようにしたわけで、同様の事例は、イタリア統一以前のシチリア王国の切手・消印にも見られます。


 ときどき、切手には消印が押されるから皇族の肖像を入れるのはけしからんという主張を声高に叫ぶ人がいますが、それなら、肖像を汚さないような消印を工夫して考案すればよいのであって、そうした努力を何もしないまま、消印云々といっているのは、本末転倒でしかないように思うのですが…。


 なお、皇室と切手をめぐって、いままで、日本ではいかに不思議な議論が展開されてきたかという点については、拙著『皇室切手 』もあわせてご参照いただけると幸いです。


 感謝祭の絵葉書

 今日は米国の感謝祭(Thanks-giving Day)の日です。というわけで、単純素朴にこんな絵葉書をご紹介しましょう。


 感謝祭の絵葉書


 感謝祭恒例のご馳走である七面鳥に追いかけられる子供の姿がなんともかわいらしい1枚です。第一次大戦中につくられたものですが(裏面には1917年の消印が押されています)、戦時下ということを全く感じさせない出来栄えです。アメリカという国の底力を感じさせる1枚といってよいでしょう。


 間抜けな話なのですが、あるオークション誌で「Turkey, PPC, used in 1917」という記述が目に飛び込んできて、第一次大戦中のオスマン帝国に関する絵葉書のつもりで入札したところ、落札してきたのがこの葉書でした。まぁ、落札してきたのはこの1点だけではなかったし(本命のマテリアルはきちんと手に入りました)、この葉書じたいもせいぜい5ドル位の安いものでしたので、あまりトサカに来ませんでしたが・・・。それよりも、“怪我の功名”ですが、ぱっと見た瞬間、この絵が妙に気に入ってしまい、いつかはどこかで使ってやろうとずっと思っていたものですから、今日は感謝祭にちなんでブログに画像を貼り付けてみたというわけです。


 そういえば、その昔、クリスマスに七面鳥を1羽丸々買ってきてオーブンで焼いてみたことがあります。オマケにつけられていたレシピに忠実に作ったので、味のほうはそこそこ上手くできたのですが、何せ量が多くて一度には食べきれませんでした。そこで、残った身をわさび醤油で食べてみたり、サラダのトッピングにしたり、サンドイッチに入れたり、チャーハンの具にしたり・・・といった感じで、都合、年内一杯いろいろといじって楽しんでいたのですが、さすがに、紅白歌合戦を見ることになると、いい加減、普通の鶏が無性に恋しくなったことを思い出します。


 以来、七面鳥の丸焼きを自宅で作るのは自粛しているのですが、今日のような葉書を見ていると、またぞろ、七面鳥が食べたくなってきました。まぁ、今日のところは、七面鳥の肉は止めておいて、野生の七面鳥のラベルがついたウイスキー(=ワイルド・ターキー)でお茶を濁すことにしますか。


 さて、昨日のブログで予告した今朝のラジオ放送は、無事、終了しました。なにぶんにも、収録は約1月前の10月27日でしたので、自分でも話した内容を忘れていましたが、まずは無難にこなしていたように思います。お聴きいただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 産業図案切手と傾斜生産方式

 ★★★ 緊急告知! ★★★

 

 明日(11月24日)、文化放送(AM放送、周波数は1134kHz。放送は関東地区のみ)の番組「蟹瀬誠一・ネクスト 」の“ネクスト・朝イチライブラリー”のコーナーで、『皇室切手』の著者インタビューが放送されます。放送時間は、午前8時20分~30分ごろの予定です。


 よろしかったら、是非、聞いてやってください。


 ★★★★★★★★★★★★★


 

 さて、今日は勤労感謝の日です。


 日本の切手の中で、“はたらく人々”を取り上げた切手といえば、終戦後まもない1948年から発行された通常切手である“産業図案”切手を思い浮かべる人が多いのではないかと思います。


 産業図案切手は、戦後復興にむけての国民の意欲をかきたてるため、重要産業で働く人々の姿を取り上げたもので、戦後の日本切手の中では、珍しくメッセージ色の強いシリーズといってよいでしょう。なかでも、炭坑夫ならびに製鉄の切手は、非常に重要な意味を持つものとして注目に値する存在です。


 炭坑夫     製鉄


 1946年末、第一次吉田茂内閣が設置した石炭委員会は“傾斜生産方式”を提唱。1947年以降、これが戦後復興のための基本方式となります。


 傾斜生産方式の基本的な考え方は、限られた資金と資材を基礎素材の生産に集中的に傾斜させ、これを原動力として経済全体の復興をめざすというもので、具体的には、輸入重油を鉄鋼生産に投入して鋼材を増産→その鋼材を炭鉱に投入→増産された石炭を鉄鋼業に投入→増産された鋼材を炭鉱に投入・・・というプロセスを繰り返すことで、石炭と鉄鋼の生産回復を図ろうというものでした。(のちに食糧や肥料も増産の対象とされています)


 そして、そのための手段として、石炭を原価より安く鉄鋼業に引き渡し、鋼材を原価より安く炭鉱に引き渡すための価格差補給金の制度が設けられ、石炭・鉄鋼・電力・海運を中心に重要産業に重点的に傾斜金融を行うための復興金融公庫(復金)が設立されます。こうして、1947年以降、傾斜生産方式が本格的に開始され、戦後の復興がようやく本格的に開始されることになりました。


 産業図案切手は、こうした社会的背景の下に発行が開始されたもので、最も需要の多かった書状基本料金の切手(当初は5円、のち8円)に炭坑夫が取り上げられていたのは、あきらかに、石炭の増産が国策として重要な課題とされていたことの反映とみなすことができます。一方、石炭と並んで重要な産業であった製鉄は、高額の100円切手に取り上げられています。個人的には、この100円切手は、デザインや凹版彫刻の美しさなど、切手としての出来栄えという点で、機関車製造を描いた500円切手(産業図案切手の最高額面)をはるかにしのいでいるように思えます。やはり、題材としての国家にとっての重要度の差が、切手としての完成度にも影響を与えていると考えたいのですが、いかがなものでしょう。


 その後、戦後復興から高度経済成長へと時代の位相が変化していくと、どういうわけか、日本の切手には“労働者”があまり取り上げられなくなっていきます。その背景には、もしかすると、“労働者”という言葉に、ある種左翼的な政治臭が感じられるということもあったのかもしれません。


 とはいえ、現在の日本の労働者の相当部分を占めているはずのサラリーマンに関して、その働く姿が切手という国家のメディアにはほとんど取り上げらてこなかったという状況は、なんだか、非常にバランスを失しているような気がしてなりません。なんだか、日本の政府が、サラリーマンという存在をどのように考えているのか、その一端が垣間見えるようで、薄ら寒い思いがするのは僕だけではないでしょう。

 鳩山一郎の葉書

 昼食をとりながらTVを見ていたら、自由民主党(自民党)が結党50周年を迎えて記念式典をやったというニュースが流れていました。それを見て、こんなものが手元のストックにあったことを思い出しました。


 鳩山一郎の葉書


 この葉書は、自民党の初代総裁となった鳩山一郎が差し出したものです。


 葉書が差し出されたのは、1953年9月のことで、この時点ではまだ自民党は影もかたちもありません。というよりも、この時期の鳩山は、吉田一郎の自由党と袂をわかって“鳩山自由党(分党派自由党)”を結成しており、同年4月の選挙(有名なバカやロー解散に伴う選挙です)では吉田の自由党と戦っています。


 鳩山と吉田の確執のルーツは、1946年の戦後最初の総選挙で日本自由党総裁の鳩山が組閣目前で公職追放になった際、追放解除となった暁には鳩山が総裁に復帰するという約束をしたうえで、吉田が自由党総裁に就任し、首相になったことにあります。その後、1951年に鳩山の追放は解除されますが、彼はその直前に脳梗塞で倒れ(葉書の文字が震えているのは、その後遺症のためかもしれません)、吉田がそのまま総裁・首相の座にとどまったことから、鳩山周辺のグループの反吉田感情が沸騰。両者の対立は、講和条約の発効に伴い、戦前からの大物政治家が続々と政界に復帰を果たしていく中で、憲法改正問題や外交路線、政治的背景の対立なども絡んで、泥沼の抗争へとつながっていきました。


 その後、鳩山は一時的に吉田の自由党に復党したものの、再び離党。1954年に日本民主党を作って、ついに、宿敵・吉田を退陣に追い込みました。しかし、少数与党政権で政権基盤が安定しなかったことに加え、社会党の勢力伸張に対抗する必要もあり、1955年、自由党と民主党が合併(保守合同)し、現在の自民党が誕生しました。初代総裁は鳩山です。


 その昔、この葉書を含めて、歴代の総理大臣経験者の名前で差し出された手紙類を集めて1冊の本が出来ないものかと考えたこともあるのですが、現在までのところ、実現にはいたっていません。まぁ、その手の手紙類のうち、残されているものの大半は、印刷された選挙関係のものですから、並べてみたところでカバーとしての面白さはあまりないのですが、読み物としては、それなりに面白いものができるやもしれません。このブログをお読みの出版関係者の方の中で、そういう企画にご興味をお持ちの方がいらっしゃったら、一度、ご連絡いただけると幸いです。

 

 東京→大阪

 昨日は、(財)日本郵趣協会の大阪南、布施、八尾、堺、河内長野、平野の各支部を中心に開催された“大阪南部地区合同郵趣例会”(平野郵便局で開催)にお邪魔して、先月刊行の拙著『皇室切手 』を題材とした簡単なトークを行い、あわせて本の割引販売とサイン会をさせていただきました。


 おかげさまで、84名ものお客様にお集まりいただき、講演は盛況のうちに無事終了となりました。また、用意した『皇室切手 』20冊はおかげさまをもちまして完売となり、うれしい限りです。いろいろと面倒を見ていただいた関係者の方々、なかでも、平野支部の中尾謹三さんには、この場をお借りしてあらためてお礼申し上げます。


 どういうわけか、僕はこれまで大阪に行くチャンスがほとんどなく、道頓堀も実際には見たことがないという始末なのですが、これを機会に、大阪の方々ともお付き合いが広がっていけばなぁ、と思っています。

 

 というわけで、今日は単純素朴に、東京から大阪宛の郵便物として、こんな画像をアップしてみました。


 龍カバー


 このカバーは、明治4年に発行された日本最初の切手である“龍文切手”の200文を2枚貼って、明治5年2月に大阪宛に差し出されたものです。元の所有者が展示のためにカバーを開いているため、切手に押されている、テン書体で“検査済”の文字が入った東京の消印が欠けているのが残念ですが、“壬申二月十三日・東京郵便役所”の朱印はバッチリ押されています。


 世界最初の切手であるペニーブラックと日本最初の切手である龍文切手に関しては、いつかは、見栄えのいいカバーを手に入れなければ…と思っていたのですが、ペニーブラックのほうはともかく、龍文切手のカバーはそれなりの値段がするので、なかなか買えずに、長い間、二の足を踏んでいました。それが、2~3年前、東京の歴史を題材とした企画展示を作ることになり、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ったのがこのカバーです。(なじみの切手商さんに、大分おまけしてもらったのですが、それでも、僕にとっては結構な金額でした)


 その後、なんだかんだいって、日本最初の切手のカバーということでマスコミから問い合わせや原稿の図版などで活躍する機会も少なからずありましたから、そういう意味では、十分に元をとったといえるかもしれません。


 じつは、昨日の講演のときに、日本最初の切手が天皇の肖像ではなく龍になったいきさつを説明するための題材としてこのカバーをもって行こうかとも思っていたのですが(東京→大阪、ということもありますしね)、朝寝坊して自宅の机の上に置き忘れたまま、出かけるという失態をやらかしてしまいました。そこで、昨日のお礼をこめて、遅ればせながら、今日のブログに画像をアップしてみたという次第です。