郵便学者・内藤陽介のブログ -5ページ目

 <JAPEX>から“反米展”へ

 おかげ様で、第40回全国切手展<JAPEX>は昨日(30日)をもって無事、終了いたしました。


 今回の<JAPEX>のデータについては、追って、主催者の(財)日本郵趣協会事務局より報告・発表がありますが、入場者数は前年比で約一割増(入場券の半券ベース、リピーターをいっさい含まない数字)となったほか、収支面でも大幅に状況が改善されました。いろいろと細かい点では問題も少なからずあったのですが、まずはイベントとして合格点には到達することができたのではないかと自負しております。


 これもひとえに、皆様のご支援・ご協力の賜物です。実行委員長として、この場を借りて厚くお礼申し上げます。


 さて、<JAPEX>が終了し、明日(11月1日)からは、東京・白金の明治学院・インブリー館 にて「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催いたします。(下記の画像は同展のポスターで、クリックしていただくと、拡大画像で詳細をご覧いただけます)


 反米展


 

 今回の展示は、国指定の重要文化財であるインブリー館が東京文化財ウィークの期間中、公開されるのにあわせて開催されるもので、6月に刊行した拙著『反米の世界史』(講談社現代新書) の図版として用いた切手・郵便物を中心に展示します。いわゆる切手の展覧会でよく使われるフレーム展示ではなく、アルミのパネルとイーゼルを用いた、ちょっとクラッシクなスタイルの展示となりました。


 会期は11月1日から10日の10:00~16:30(入場は16:00まで)で、入場は無料です。会場の建物が実にすばらしいので、ぜひ、お運びいただけると幸いです。


 ◆トップページの右側、カレンダーの下にあるテーマ一覧の反米の世界史(含反米ネタ) ( 13) をクリックすると、今回のイベント関連の過去の記事(ただし、必ずしも、その全てが今回、展示されているわけではありませんが)をご覧いただけます。よろしかったら、こちらもどうぞ。 

 松食鶴

 早いもので<JAPEX >の池袋会場今日が最終日となりました。とはいえ、目白会場の“皇室切手展”は、11月6日まで開催していますので、まだご覧になっていない方は、是非お運びください。


 さて、今回の“皇室切手展”は、逓信総合博物館と明治神宮、それに著名な収集家の方々にご協力をいただき、普段はめったに見ることのできない名品を多数展示することができました。その中でも、ひときわ目を引くのが、大正天皇の銀婚式の記念切手のうち、松喰鶴を描いた1銭5厘ならびに8銭の切手の未裁断の試刷シート(↓)です。


 松喰鶴試刷未裁断シート   松喰鶴


 画像をスキャンしてこのページにもアップしようかと思ったのですが、あまりにも大きすぎて、スキャナーではどうにもなりませんので、雑誌『郵趣』から引っ張ってきました。通常の単片切手のデザインは、右側の画像をご覧ください。


 切手のデザインは、菊花紋章を中心に、2羽の松喰鶴を配して銀婚式を意味する25の星で周囲を囲んだというものです。松喰鶴は、松の折枝をくわえながら飛んでいる鶴の姿をデザイン化したもので、おめでたい時によく使われる紋様です。


 今回の未裁断シートは、ある個人の収集家の方にお願いしてご出品いただいたものですが、とにかく、その迫力には圧倒されます。是非、会場で直接見ていただきたい逸品です。


 なお、この松喰鶴の切手を含め、大正天皇の銀婚式と切手については、拙著 『皇室切手 』でもいろいろと説明していますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。


 *11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。


 ◆トップページの右側、カレンダーの下にあるテーマ一覧の“皇室切手”をクリックすると、『皇室切手 』関連の過去の記事をご覧いただけます。よろしかったら、こちらもどうぞ。

 

 ベルリンのソ連軍

 <JAPEX >は今日が中日です。


 今回、“1945年”の特集で「“戦後”の誕生」を作るにあたって、一番頭を悩ませたのは、最初に展示するマテリアルを何にするかという点です。結局、全体の総タイトルにあたる部分は文字だけにして、悩んだ末に、展示を構成する作品群のうち、冒頭の作品「欧州:東西冷戦の開幕」のトップに持ってきたのが↓の葉書です。


 ベルリンのソ連軍


この葉書は、ドイツ降伏後のベルリンから占領ソ連軍が差し出した軍事郵便です。葉書の書き込みはドイツ降伏の日である“1945年5月8日 ベルリン”となっていますが、実際に押されている消印の日付は5月23日です。やはり、占領直後の混乱の中では、郵便物の処理にもそれなりの時間がかかったということなのでしょうか。なお、葉書にはこの葉書が検閲を受けたことを示す3行書きの印と(非常に薄くて読みにくいのですが)モスクワ到着時の6月何日かの郵便印も押されています。


 第二次大戦に敗れたドイツは米英仏ソの4カ国に分割占領され、やがて東西分断国家が誕生します。その後、1990年の東西ドイツの統一まで、分断国家となったドイツ、なかでも、東ドイツに浮かぶ西側の孤島となった西ベルリンの存在は、ヨーロッパにおける東西冷戦の象徴的な存在となったことは、皆様ご存知の通りです。


 この葉書は、そうした東西冷戦の原点を象徴するものとして、「“戦後”の誕生」では、一番最初に登場するマテリアルとして展示してみました。是非、会場にお運びいただき、作品をご意見・ご感想などをお聞かせいただけると幸いです。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようになっていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。

 国際連盟から国際連合へ

 いよいよ、今日、<JAPEX >が開幕します。今年は、池袋会場では“1945年”と“国際連合(以下、国連)”という二つの特別展示をご用意しました。で、その両方に関わるマテリアルとして、こんなものをご紹介します。


  国際連盟宛カバー    カバー裏面


 このカバーは、1945年5月、アルゼンチン外務省からジュネーブの国際連盟(以下、連盟)宛に差し出されたものです。途中、経由地のアメリカで検閲を受けたことにくわえ、終戦前後の混乱もあって、逓送に4ヶ月もかかっていることが、裏面に押された連盟内の郵便局の到着印(右の画像です)からわかります。


 1945年4~6月のサンフランシスコ会議によって、連盟に代わる組織として国連の発足が決められましたが、その後も、1946年4月までは、整理業務のため連盟も存続していました。したがって、この時期は連盟と連合が並存しており、連盟から国連への移り変わりを示す郵便物が存在することになります。このカバーも、その一例といってよいでしょう。


 本日スタートの<JAPEX >では、日本における国連切手の収集・研究の第一人者、佐々木謙一さんのコレクションの一部として、国連草創期の郵便をまとめた作品も展示されています。ここでご紹介しているカバーは、おなじく特別展示の“1945年”に並べる僕の作品で使っていますが、これよりもはるかに、国連に関する興味深い資料が並んでいます。めったに見ることのできないマテリアルがテンコ盛りの展示ですので、是非、池袋の会場にお運びください。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 40:第40回<JAPEX>の初日にあわせて、ちょうど40項目となっています) のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようにしていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。

 銀の鳳凰

 いよいよ、明日(28日)から全国切手展<JAPEX >がスタートします。


 すでに、いくつかのブログでも話題になっているようですが、今年から、通常の基金(1口4000円)に加え、一口3万円の特別基金を設け、特別基金のご協力者の方々にはいくつかの特典の一つとして、一般入場(10:30より)に先立ち、10:00よりご入場いただけるようにいたしました。

 

 切手の面白さ・奥深さを一人でも多くの方に知っていただくためは、僕が毎日このブログに記事を書いているだけではダメで、やはり、しかるべき場を用意してきちんとした内容のソフトを社会に向けて発信することが必要です。日本最大の切手イベント<JAPEX>は、まさに、そのための絶好の機会なのですが、こうしたイベントをやるには巨額の資金が必要です。そこで、いろいろな方に“基金”というかたちでご寄付をお願いしているわけです。(もちろん、ブースをご出店いただいている切手商の方々にも、足を向けて眠れません)


 今年、実行委員長という立場で<JAPEX>に関わってみて、とにかく、多くの方から頂戴した浄財をいかに有効に活用するか、という点を自分なりに一生懸命考えてきたつもりです。そのためには、実行委員・審査委員の謝礼を減額したのをはじめ、とにかく、不十分かもしれませんが、経費面で圧縮できるところは圧縮してみようと努力したつもりです。


 その反面、資金面でご協力いただいた方、特に、大口のご協力者の方に、いかに喜んでいただけるサービスを提供できるだろうかと頭を悩ましました。特別基金ご協力者の入場を(30分だけの内覧会ですが)早めたのも、いかに経費をかけずにご協力いただいた方に報いることができるか、僕たちなりに一生懸命考えた結果の一つです。


 ただし、今回は実験的な試みなので、10:00~10:30の時間帯は展示スペースのみの内覧会で、切手商ブースのスペースへは従来どおり10:30からのご入場となります。一般公開に先駆けて、展示をごゆっくりとご覧いただければ幸いです。(この点、僕の説明不足で一部に誤解を招いたようで、申し訳ありませんでした)


 さて、今年の<JAPEX>では、目白会場(切手の博物館)での“皇室切手展”、池袋会場(サンシャイン文化会館)での“1945年”と“国連切手展”の3つを柱にイベントを組み立てましたが(もちろん、全国から寄せられた競争出品と切手商ブースも例年通り、たっぷり楽しめるものとなっています)、全体のシンボルとしては、↓の切手を前面に押し出しました。


  大正銀婚


 この切手は、1925年に行われた大正天皇の銀婚式を記念して発行されたもので、銀色のマージンにグリーンの鳳凰がすごく格好いいと思います。


 当時、大正天皇は病床にあり、銀婚式そのものが無事に行えるかどうか危ぶまれていましたが、最終的に銀婚式が行われることになり、記念切手も突貫作業で作られました。実際の切手は平版印刷ですが、原版は、原画を凹版で彫刻した後、それを平版で印刷するというスタイルをとっています。また、周囲の目打ちの銀色部分は、すべて手作業(!)でアルミ箔を貼り付けたもので、さすが、大日本帝国の天皇の銀婚式を祝うだけに、気合いの入った作りになっています。


 今回の<JAPEX>の凹版カードを作るとき、さすがに“1945年”の切手ではしまらないので、目白会場の“皇室”にちなんだものから題材を選ぼうと言うことになりました。そのなかで、候補としては、1959年の皇太子(今上陛下)ご成婚ということも考えないではなかったのですが、やはり、単純に格好いい切手ということで、大正銀婚の鳳凰に軍配が上がりました。


 で、せっかくならということで、この切手は凹版カードのみならず、Pスタンプや小型印のデザインにも使って、全体のシンボルマークのような扱いにしています。いずれも、近年の<JAPEX>のグッズの中では一番できがいいと思いますので、展示をご覧いただいた後、お時間があれば記念グッズのコーナーにもお立ち寄りいただけると幸いです。


 なお、<JAPEX>の基金に一口以上ご協力いただいた方には、もれなく、精巧な凹版印刷による、この切手の墨一色の模刻(↓ 画像は部分)を贈呈します。ホンモノと見比べてみて、その確かな技術を味わっていただければ幸いです。


 凹版カード

 

 *大正天皇の銀婚式と切手に関しては、新刊の拙著皇室切手 』をご一読いただけると幸いです。(皇室切手 (18) をクリックしていただくと、関連の内容をお読みいただけます)

 また、上述の通り、10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、出版元である平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。会期中の僕の予定としては、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。


 台湾名と日本名

 今日(10月25日)は、日本の植民地だった台湾が中国側に接収されてから60周年の日に当たります。これを記念して、北京では抗日記念イベントが大々的に行われるとのことで…。


 中国国民政府が台湾を接収した根拠は、1943年のカイロ宣言ですが、これはあくまでも“宣言”であって、法的な拘束力はありません。したがって、本来であれば、1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が台湾の領有を放棄した後、台湾の次の帰属を正式に決める必要があったのですが、1949年の共産中国の誕生により、敵対する国民政府が台湾に逃げ込んだことで、そうした手続きが行われず、台湾の正式な帰属は宙に浮いたまま現在にいたっています。したがって、現在の中国政府の台湾に対する領有権の主張は、厳密にいえば、国際法上の根拠はなにもありません。そもそも、中国の正統政権がどの政府であるのかということと、その政府が台湾を支配するのか否かということは、まったく別の次元の話なのですが、そういうことをいっても、まぁ、現在の中国共産党政権は聞く耳を持たんのでしょうがね。


 さて、終戦直後の台湾に関しては、こんなカバー(封筒)があるので、ご紹介しておきましょう。


 台湾数字カバー


 終戦直後の台湾では、終戦直前の日本時代に製造された切手を接収して「中華民國 臺灣省」の文字を加刷した切手が使われていました。このカバーに貼られているのも、そうした1枚です。


 さて、このカバーでご注目いただきたいのは、宛名に改名(日本名)と旧名(台湾名)が併記されている点です。


 台湾では、戦時中、苗字を日本風に改める改姓名運動が行われました。このカバーの名宛人もそれに従って日本名“吉川秀雄”を名乗り、日本兵として出征したものと思われます。ところが、終戦後、台湾が日本の植民地支配から解放されると、“吉川秀雄”は旧名の“載晩”にもどります。もっとも、このカバーが差し出された時点では、載晩氏は復員してきておらず、周囲の人々は彼を“吉川秀雄”としてしか認識していません。このため、差出人は、手紙が確実に届くように、日本名と台湾名を併記したものと思われます。


 なお、当時の規則では、旧外地・戦地で復員を待っている将兵宛の郵便物は葉書に限って認められており、封書の差出は認められていませんでした、このため、このカバーも規則違反として差出人に返送されています。


 いずれにせよ、国家の制度的な帰属がどのように変わろうと、そこに生きている人々の生活は、そうそうデジタル的に切り替わるものではなく、旧制度が残存する中で緩やかにしか変わっていかないのは当然のことです。年表式に歴史を考えると、どうしても、その辺の感覚が希薄になってしまいますが、このカバーはそうした当たり前のことを目に見えるかたちで示してくれているといってよいでしょう。


 さて、今週金曜日10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品しますが、作品では、このカバーも含め、日本や中国の終戦前後の状況をさまざまな角度から再構成しようと考えています。是非、週末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです

 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 39) のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようになっていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。

 解放後の収容所

 第二次大戦を語る際に避けて通れないのが、ナチス・ドイツによるホロコーストの問題ですが、今週金曜日(28日)からスタートの<JAPEX >に出品する僕の作品「“戦後”の誕生」では、↓のカバーを持ってきて、「戦後、収容所の実態が明らかになり、世界は戦慄した」というかたちで表現することにしました。


 ベルゲンベルゼンのカバー

 これは、ベルゲンベルゼン強制収容所(アウシュビッツから移送されたアンネフランクが亡くなった収容所です)から解放されたユダヤ系元収容者のために、米軍が提供した無料郵便のカバー(封筒)です。宛先はニューヨークのユダヤ系団体です。角型の赤い印は薄くて読みづらいのですが、“PAID”の表示(実際には無料ですが)は画像でも見えることと思います。9月9日の記事 でご紹介した上海の事例と似たようなものとお考えいただいても良いかもしれません。

 ナチス・ドイツによる強制収容所の実態は、ドイツの敗戦まで、なんとなく囁かれてはいたものの、外部ではうかがい知ることのできないものでした。それだけに、終戦と同時に、悲惨な実態が明らかになるにつれ、世界は戦慄し、欧米ではホロコーストの被害者に対する贖罪意識が社会全体に浸透していくことになります。


 そのことじたいは、人間として当然の反応だと思いますが、問題は、そうしたホロコーストに対する贖罪意識が、安直に“パレスチナでのユダヤ人国家建設は善である”というロジックと結び付けられたことにあります。その際、イギリスの委任統治下にあったパレスチナには、もともと多くのアラブ系住民が住んでおり、ユダヤ系移民の急増で、アラブ系とユダヤ系の軋轢が深刻な社会問題となっていたという事情は、ほとんど顧慮されることがありませんでした。その結果、国連では、実際にパレスチナに住んでいるパレスチナ人の意向を完全に無視して、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割する決議案が採択され、中東戦争につながっていくことになるのです。


 その意味では、ヨーロッパでの第二次大戦の終結は、東西冷戦を生み出したのと同時に、アラブ世界にも極めて大きな影響を与えたという点も見落としてはならないのですが、今回の「“戦後”の誕生」では、割り当てられたスペースの都合や僕の能力的な問題もあり、残念ながら、そこまで踏み込むことはできませんでした。他日を期したいところです。


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 国連デー

 今日は国連デー。国連憲章が発行して正式に国連が発足した日です。というわけで、こんなモノを引っ張り出してきました。


 ロンドンでの国連総会


 このカバーは、第1回の国連総会にあわせてイギリスで使われた宣伝の標語印が押されたものです。


 国連というと、我々は条件反射的にニューヨークと思ってしまいがちですが、ジュネーヴとウィーンにも事務局はありますし、ニューヨークの本部ビルが完成する以前の第1回総会はロンドンで開催されています。


 当初、第1回の総会は1945年12月からスタートの予定で、それにあわせて、イギリスでは宣伝の標語印を使い始めました。ところが、実際には準備が遅れて、総会は1946年1月10日スタートとなりました。このため、12月1日から使われていた標語印の試用期間も当初より延長され、1月19日まで使われています。なお、標語部分には、“1945”の文字が入っていますが、これは1946年になっても修正されず、そのまま使われています。


 さて、10月28日スタートの<JAPEX >では、日本における国連切手の収集・研究の第一人者、佐々木謙一さんのコレクションの一部として、国連草創期の郵便をまとめた作品も展示されています。ここでご紹介しているカバーは、おなじく特別展示の“1945年”に並べる僕の作品で使っていますが、これよりもはるかに、国連に関する興味深い資料が並んでいます。めったに見ることのできないマテリアルがテンコ盛りの展示ですので、是非、池袋の会場でご覧いただけると幸いです。

 

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 英國大使舘情報部からニュージーランドへ

 今日は、国際異文化学会の大会で「切手の中の1945年」という発表をします。タイトルを見ていただければお分かりのように、10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >に出品予定の「“戦後”の誕生」の前宣伝を兼ねた発表です。


 僕の場合、学会発表や学会誌への投稿というのは、自分の活動のプロモーション活動の一環と考えています。すなわち、新しく本が出るとか、何か大きなイベントをやるとか、そういう機会の前に宣伝を兼ねて、本なりイベントなりの“おいしいところ”を紹介するために、学会という場を利用するわけです。こうした学会の使い方には異論をお持ちの方もおありでしょうが、(少なくとも現状では)僕の本業はあくまでも本を書くことですから、全ての社会活動は何らかのかたちで本業とリンクさせたいと考えるのは当然のことと僕は考えています。


 発表の題材は、11月1~10日の「反米の世界史」展の中からとっても良かったのですが、申し込みの時点では、発表の時点ではブツが展示用のパネルにセットされている可能性があったため(現実には、まだパネルの制作作業は完了していません)、安全を見て、“1945年”を選びました。


 さて、国際異文化学会の方々は、英米文学系の方が主流ということなので、ぜひとも取り上げたかったのですが、結果として時間切れで取り上げられなかったマテリアルが↓です。


 ニュージーランド軍


 このカバー(封筒)は、第二次大戦の終戦後まもなく、1945年9月に業務を再開した東京のイギリス大使館から差し出されたニュージーランド宛の軍事公用便です。残念ながら、中身は入っていなかったのですが、左下の“英國大使舘商務官”や右上の“英國大使舘情報部”などのスタンプからすると、日本の状況についてのレポートのようなものが入っていたのではないかと推測されます。


 8月4日の記事 でも書きましたが、終戦後、日本に進駐した“連合軍”の圧倒的多数は米軍でしたが、少数ながら、英連邦軍も広島県を中心に進駐していました。この英連邦軍の中には、もちろん、イギリス本国の部隊も含まれていましたが、オーストラリア、インドやニュージーランドなどの部隊が相当数を占めていました。これは地理的な関係を考えてみれば当然のことで、以前の記事でご紹介したBCOF切手がオーストラリア切手に加刷したものであったのも、その必然の帰結といえましょう。


 ところで、日本に進駐した英連邦軍関係のマテリアルの大半はオーストラリア関連のモノで、ニュージーランドがらみのものとなると、とたんに残存数が少なくなります。そうしたこともあって、戦後すぐのニュージーランド宛のこのカバーは、BCOFのカバーとペアで見せると非常に収まりがよく、展示などの際には非常に重宝しています。


 いずれにせよ、太平洋戦争は、日本がアメリカ・イギリスと戦った戦争ということになっていますが、その“イギリス”のなかには、いわゆる英本国だけではなく、オーストラリアやニュージーランドの兵士たちも少なからず含まれていたわけで、こうした視点から、あの戦争を見直してみると、従来とは違った歴史像が見えてくるような気がします。来年は日豪交流年ということなので、なにか、そういうかたちの仕事ができればいいな、とぼんやり考える今日この頃です。


 さて、くどいようですが、今週金曜日10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品しますが、作品では、このカバーも含め、大日本帝国の終焉をさまざまな角度から再構成しようと考えています。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 36) のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようになっていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。


 

 キューバから手を引け!

 10月22日は、1962年にアメリカのケネディ大統領がキューバを海上封鎖し、いわゆるキューバ危機が本格的に始まった日です。というわけで、今日はこんなモノを引っ張り出してきました。


 キューバから手を引け!


 これは、1962年10月に東ドイツのマグデブルグ(中学校の理科の教科書に出てきた真空実験の半球で有名な町です)から差し出された郵便物の一部で、「キューバから手を引け!」とのスローガンが入っています。


 6月10日の記事 でも書きましたが、もともと、カストロの革命は、あまりにも極端な社会的不平等を是正するためのもので、必ずしも社会主義的なものではありませんでした。しかし、農地改革などの政策が、キューバに莫大な利権を持っていたアメリカの逆鱗に触れたことで、アメリカによるカストロ暗殺未遂事件など革命つぶしの工作が本格化。これに対抗するために、カストロはソ連に接近していくことになります。


 その一環として、1962年、カストロは、兵器提供の代りに核ミサイルをキューバ国内に配備するというソ連の提案(アナディル作戦)を受けいれ、これに従ってソ連製の核ミサイルがキューバに配備されていきます。


 これに対して、アメリカは偵察飛行により、同年10月14日、キューバにアメリカ本土を射程圏内とするソ連製ミサイル(MRBM)が配備されていることを発見。ケネディはエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、海上封鎖でソ連線のキューバ入港を阻止。10月22日には、テレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難しました。


 結局、キューバ危機は、米ソ両国の間で妥協が成立し、アメリカがトルコのミサイルを撤去する代わりにソ連もキューバのミサイルを撤去することで決着。世界は核戦争の脅威から救われました。


 キューバ危機は、世界史的に見ても非常に重要な出来事なのですが、実質的な期間が13日間(そういえば、そういうタイトルの映画もありましたね)しかなかったことに加え、直接的な戦闘が行われたわけではないので、当時の切手や郵便物にその痕跡を探すのは決して容易なことではありません。


 そういうわけで、今回の消印は、キューバ危機が表面化する直前の時期のものではありますが、この時期のキューバ関連のプロパガンダ・マテリアルとして非常に分かりやすいものなので、個人的に気に入っています。まぁ、欲を言えば、キューバ危機に伴う海上封鎖によって配達不能となり、差出人戻しとなったキューバ宛の郵便物なんかを手に入れられたら、文句なしなのですが…。


 さて、11月1~10日(10:00~16:30)、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。この展覧会は、その名の通り、拙著『反米の世界史 』でつかった図版の実物を中心に展示するもので、キューバに関しては、本日ご紹介の封筒も展示する予定です。入場は無料ですから、是非、遊びに来ていただけると幸いです。