郵便学者・内藤陽介のブログ -7ページ目

 朴憲永

 今朝のテレビは、昨日行われた朝鮮労働党60周年記念式典のニュースがトップで、パキスタンの地震も、ドイツのメルケル政権の発足も、なんとなく影の薄かった感じです。


 現在の北朝鮮の支配政党である朝鮮労働党は、当初、朝鮮共産党(太平洋戦争後、在地の共産主義者であった朴憲永がソウルで結成した共産党組織)の“北朝鮮分局”として発足しました。これが、1945年10月10日のことで、今回の60周年というのは、ここから起算した年周りです。


 朝鮮共産党北朝鮮分局という形式が取られたのは、当時はコミンテルンの一国一党原則が生きていたことに加え、朝鮮に南北両政府で分断されるということが想定されていなかったためです。ただ、北朝鮮を占領したソ連当局としては、この地に衛星国を建設するためには、なんとしても自分たちの息のかかった金日成が主導する共産党組織を作る必要があったわけで、彼らとしては“分局”を実質的に朝鮮における共産主義の本家として育成するつもりが当初からあったことはいうまでもありません。


 さて、朴憲永の朝鮮共産党は、1945年末からはじまった反託闘争(信託統治反対闘争。詳しくは10月4日の記事 もご覧ください)の混乱の中で、米軍政庁に抵抗する姿勢を鮮明に打ち出していました。このため、占領当局は共産党の弾圧に乗り出し、1946年9月6日、朴ら党幹部には逮捕状が出ます。このため、幹部が北へ逃れるとともに、同年11月、朝鮮共産党を中心に、南朝鮮新民党・朝鮮人民党の左派勢力が合併し、南朝鮮労働党が発足。一方、北朝鮮では、これに先立つ1946年8月、朝鮮共産党北朝鮮分局が朝鮮新民党を吸収して北朝鮮労働党をつくっていました。この南北の朝鮮労働党が、1949年6月に合併して誕生したのが、現在の朝鮮労働党の原型です。


 この時期の、朝鮮内の混乱を良く示すマテリアルとしては、こんなものをご紹介してみましょう。


 朴憲永逮捕取消嘆願書   朴憲永嘆願書封筒


 これは、朴憲永に対する逮捕令が発せられた後の1947年1月、南朝鮮(このときはまだ大韓民国は成立していない)占領の最高司令官であったホッジ中将宛に、朴の逮捕令を取り消すよう求めた嘆願書です。この時期、すでに朴は越境して北朝鮮に逃れていましたが、そのことを知らない一般の南朝鮮市民の中には、北朝鮮に突如(ソ連から帰国して)現れた金日成のような若造ではなく、戦前からの共産主義運動の指導者として名高かった朴に、統一朝鮮の政治指導者としての役割を純粋に期待していた人も少なからずいたのです。この手紙の差出人も、まさに、その一人だったのでしょう。


 ちなみに、北朝鮮に渡った朴憲永は、1949年6月に朝鮮労働党が成立すると、その中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任し、その後も、北朝鮮国家の副首相や外相を歴任します。しかし、朝鮮戦争の休戦後、金日成らとの権力闘争に敗れ、朝鮮戦争での半島統一の失敗の責任を負わされたうえ、アメリカのスパイとして処刑されるという悲劇的な運命をたどっています。


 さて、10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品する予定です。朝鮮半島に関しては、この嘆願書も含め、1948年に南北両政府が発足するまでの歩みを切手や郵便物でたどります。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 32) のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する記事もあわせて、展示の予告編としてご覧いただけるようにしています。よろしかったら、クリックしてみてください。

 東京五輪募金切手の小型シート

 10月10日は晴の特異日で、それゆえ1964年の東京オリンピックの開会式が行われ、それを記念して数年前までは「体育の日」になっていたのは広く知られています。ただ、今年の東京は、珍しく天気があまり良くないのがちょっと残念ですが・・・。


 ところで、1964年の東京オリンピックを前に、大会資金を捻出する手段の一つとして寄付金つき切手が発行されたことは広く知られています。この寄付金つき切手は、当初、1961年10月から1964年6月まで6次に分けて20種類の切手が発行されましたが、大会直前の1964年8月になって小型シートが追加発行となりました。このうち、小型シートに関しては、↓のような“エラー(というより、単なる不良品といった感じですが)”が数多く発見されており、ある意味で収集家を楽しませてくれます。


 目打ズレの小型シート


 どうしてこういうことになったのか、以下、ちょっと専門的になりますが、東京オリンピックの寄付金つき切手の小型シートの製造過程について、説明しておきましょう。


 今回の小型シートの製造は、印刷局に保存されていた単片切手の原版をそのまま使い、小型シート12面分(2×6)の印刷実用版が作られ、ザンメル凹版多色機によって印刷されました。


 この段階では問題はなかったのですが、目打に関しては、今までにはない新しい型を作らねばならなかったので、作業が難航。結局、未裁断シートの小型シート左右2シートを1回で穿孔する全型目打が作られ、6回の作業で未裁断シート12面の穿孔を完了するという計画が立てられ、作業が民間会社に委託されます。この時期、印刷局の製造ラインは完全に埋まっており、急遽決まった大量の小型シートの発行に対応できなかったためです。


 ところが、目打機の設計に問題があり、実際に穿孔作業を行ってみると、紙送りの歯車のピッチがあわず、大量の目打ズレが発生。ただでさえ、目打の穿孔作業に不慣れな民間会社は、苦心惨憺の末、最終的には機械に重りをつけて紙送りのスピードを人間の手で加減しながら作業するという悲惨な体験を強いられました。


 なんだか、プロジェクトXばりの物語ですが、このほかにも、東京オリンピックの寄付金つき切手をめぐっては、いろいろと面白いエピソードが沢山あります。それらについては、拙著『『切手バブルの時代 』でも出来るだけ拾っていますので、ご興味をお持ちの方は、是非一度ご覧いただけると幸いです。

 パキスタン管理下のドバイ

 パキスタン北東部を震源地とする地震は死者が3000人を越える大災害になりました。


 僕はパキスタンに行ったことはないのですが、中学生の頃、ジュニア向けの切手雑誌『スタンプ・クラブ』の「パケット整理学」というコーナーで、パキスタン切手のパケットをばらして解説記事を書いたことがあります。実は、これが、フィラテリック・ライターとしての僕のデビュー作です。また、昨年(2004年)、香港のアジア国際切手展に出品したコレクションには、パキスタンのハイバル郵趣協会(ペシャワールに拠点がある収集家の団体)から特別賞を頂戴しました。さらに、大使閣下は切手収集がご趣味だそうで、そのご縁で直接お会いして数時間お話したこともあります。


 こうしたことから、いずれは、パキスタンがらみのコレクションなんかも作ってみたいと漠然と考えていたのですが(たとえば、交通の要衝であったペシャワールの郵便史なんか面白いと思うんですが)、なかなか、実際には手をつけるまでにはいたっていません。それでも、パキスタンがらみで話のネタになりそうな切手やカバー(封筒)はいくつか持っていますから、今日はその中から、こんなものをご紹介しましょう。

 

 パキスタン切手のドバイ使用


 ご紹介しているのは、1948年2月、ペルシャ湾岸のドバイ(現在、アラブ首長国連邦を構成する首長国のひとつ)から差し出されたカバーの一部で、英領インド時代の切手に“PAKISTAN”と加刷した切手が貼られています。

 

 1947年8月、インドとパキスタンが分離独立する以前の英領インド帝国は、郵政面では、非常に広範な地域をカバーしており、英領インドの域外でも各地でインド切手が使用されていました。こうした英領インドの在外局は、二つの世界大戦を経て次第に規模が縮小されていきますが、それでも、1947年8月の段階では、ドバイとマスカットの郵便はカラチ中央郵便局の管轄下に置かれていました。

 

 その後、ドバイとマスカットの郵便は、1948年4月に英本国が接収することになりますが、それまでの以降期間内は、暫定的にパキスタン国家の支配下に入ったカラチ郵便局がこの地の郵便サービスを担当していました。このため、ここにご紹介したような、パキスタン切手のドバイ使用例というのが生まれることになったわけです。ちなみに、1960年以前のドバイからの郵便物の大半は、ボンベイ(ムンバイ)宛で、この地域が広義のインド世界と密接に繋がっていたことをうかがわせます。このことを含めて、当時の郵便物を見ていると、インドとか中東とかの地域概念の境界は我々が日常的にイメージしている以上に混沌としたものであることを痛感させられます。

 

 なお、ドバイを中心とする“アラブ土侯国(現在のアラブ首長国連邦を構成している首長国)”の郵便については、拙著中東の誕生 』にまとめて書いたことがありますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。


 いずれにせよ、僕にとっては因縁浅からぬ存在であるパキスタンの惨状は、非常に胸が痛みます。一日も早い復興を心よりお祈りしております。

 PS. メインの画像を、10月19日刊行の『皇室切手 』に、プロフィールの画像を前作の『反米の世界史 』に変更しました。

 良い核・悪い核

 今年のノーベル平和賞はIAEAが受賞したとのこと。“核”がらみのブツとして一番生々しいのは、なんといっても8月5日6日の日記 でご紹介した広島の原爆関連の葉書ですが(この2点は10月28~30日の<JAPEX >でも展示します)、こんなものも面白いかと思います。


 ポーランド反核カバー


 このカバー(封筒)は、1950年7月26日、ポーランドから差し出されたものですが、切手の脇にフランス語で「我々は核兵器を全面的に禁止することを主張する。核兵器を最初に使用した政府は、戦争犯罪として、人道によって裁かれるであろう」との文面のスローガン印が押されています。


 1949年8月、ソ連が原爆実験に成功し、核兵器はアメリカの占有物ではなくなりました。この結果、それまで単純にアメリカの核を非難していればよかった社会主義諸国や左翼陣営の論者たちは、以後、ソ連の核は、核によるアメリカの恫喝に対抗する上で必要最低限のものだと主張するようになります。こうして、反核運動は、純粋な意味での反核というよりも、左翼陣営による反米プロパガンダの一環という色彩がますます強くなっていくことになりました。


 このカバーに押されているスローガン印もそうした文脈で使われたものですが、この場合は、特に、1月前の1950年6月に勃発した朝鮮戦争にアメリカが大量の兵力を派遣していたという事情も考えておく必要があるでしょう。実際、アメリカのトルーマン政権は、同年9月には朝鮮での原爆の使用を検討し始め、11月には原爆使用の可能性をにおわす大統領発言も飛び出しています。(後に撤回されましたが)


 こうした一連の動きは、アメリカによる朝鮮“侵略”を非難していた東側諸国にとって格好の攻撃材料となり、彼らは、「野蛮な“アメリカ帝国主義”の本性がむき出しになった」として、第3次世界大戦の勃発を恐れる欧州で反核の名の下に反米感情をあおっています。


 今回のカバーそのものは、トルーマン発言よりも前のものですが、そうした東側諸国の意識を良く伝える資料として興味深いと思います。


 10月28~30日の<JAPEX >が終わると、11月1~10日には、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。こちらは、6月に刊行した『反米の世界史 』(講談社現代新書)の実物を展示するというもので、今日ご紹介しているカバーも会場に並べる予定です。<JAPEX >同様、こちらのほうにも遊びに来ていただけると幸いです。

 国際文通週間・蒲原

 今年もまた、広重の「東海道53次」を題材にした「国際文通週間」の切手が発行されます。


 国際文通週間は、世界の人々が文通によって文化の交流に努め、世界平和に貢献しようという趣旨で、1957年の第14回万国郵便大会議において設定されたもので、期間は万国郵便連合創設記念日の10月9日を含む1週間です。日本では、そのキャンペーンの一環として、1958年以降、毎年、記念切手を発行しています。


 毎年4月20日(逓信記念日)に発行される切手趣味週間の切手と並んで、文通週間切手は戦後記念切手の花形役者ですが、なかでも、1960年に発行された「蒲原」(↓)は他の切手に比べてカタログ評価が高く、手の届かない高嶺の花としてあこがれていた元切手少年も多いのではないかと思います。


 蒲原


 もっとも、発行当時、蒲原は“地味な切手”と受け止められたためか、収集家の間での人気はあまりありませんでした。実際、1963年版までは、『新日本切手カタログ』(現在の『日本切手専門カタログ』の前身)でのこの切手の評価は、同時期に発行された額面30円の切手と同じく60円でした。


 しかし、おなじく文通週間切手の中でも、1958年の「京師」と1959年の「桑名」の発行枚数が800万枚だったのに対して、「蒲原」は500万枚に減らされた(「桑名」の売り上げが悪かったためでしょう)こともあり、1963年前後から、東京オリンピックを前にした切手バブルの時代に突入すると、この切手の市価も急騰していきます。


 当時の『新日本切手カタログ』の評価(収集家同士の趣味的な交換を前提にした値付けをしていたため、比較的評価額が低かった)でも、1964年版では、この切手の評価は、一挙に300円(それまでの5倍)に跳ね上がっています。さらに、1965年版では、「蒲原」の評価は続伸して500円に達してしまいました。ちなみに、1963年版では「蒲原」と同評価であった「桑名」は、1965年版のカタログでも120円の評価しかついていませんから、「蒲原」の高騰がいかに、突出したものであったかよく分かります。


 ここ数年、戦後記念切手に関する“読む事典”として、日本郵趣出版(切手関係の専門出版社です)から、<解説・戦後記念切手>のシリーズを刊行しています。これまで、1946~52年の占領時代の切手を扱った『濫造・濫発の時代 』、1952~1960年の切手を扱った『ビードロ・写楽の時代 』、1961~66年の切手を扱った『切手バブルの時代 』の3冊を出し、来年には第4弾として大阪万博前後を中心とした1冊を刊行する予定です。僕個人の目論見としては、いやしくも<解説・戦後記念切手>というシリーズ名を掲げているのですから、ともかくも昭和の終わりまではなんとか、記念切手の“読む事典”としてカバーしたいと考えているのですが、さてさて、どうなりますことやら…。


 ところで、<解説・戦後記念切手>のシリーズでは、それぞれの切手についての解説をまとめるという形式をとっているため、なかなか、広いスパンでの記念切手をめぐる動きをフォローし切れていないのが残念なところです。今回の「蒲原」の値動きの話もそうですが、各切手ごとの“逐条解説”が終わったら、それを元にもっとスケールの大きな物語を組み立ててみたいというのが、いまの僕の目標の一つになっています。

 10月6日の栄光

 1973年10月6日、エジプト・シリアの連合軍は国境を越えてイスラエル領内に侵入。いわゆる第4次中東戦争が勃発しました。

 開戦当初、アラブ側は奇襲攻撃の利を活かして、イスラエル軍に大打撃を与えます。特に、1967年の第3次中東戦争でシナイ半島を失っていたエジプトは、スエズ運河渡河作戦が成功し、イスラエルの不敗神話が破られたことに国民が熱狂。また、開戦と同時に、エジプト・シリアを支持するアラブ産油諸国は、反アラブ諸国への石油供給を削減する“石油戦略”を発動。いわゆる(第1次)石油危機が起こり、これを背景にエジプトは強気の外交攻勢を展開しました。

 もっとも、アラブ側とイスラエル側では戦争を遂行していくための地力が全然違いますから、アラブ側の有利が続いたのは開戦後のほんの僅かな期間だけのことで、時間の経過とともに、イスラエル側は反撃を本格化し、ついに、開戦時の国境を越えてエジプト・シリア領内に突入します。

 しかし、石油危機下での国際的な圧力もあって、戦争は、エジプト・シリアが一定の軍事的勝利を収めたことを踏まえた停戦交渉が開始され、サダトはシナイ半島返還を目指した対イスラエル和平路線に踏み出していくのでした。


 スエズ渡河

 

 ↑の切手は、そうした事情を踏まえて1974年の開戦1周年に際してエジプトが発行した記念切手で、スエズ渡河の場面が大きく描かれています。左側にはサダトの肖像も取り上げられており、“スエズ渡河の英雄・サダト”のイメージを内外に対して強調しようとする意図が明確に表現されています。


 もっとも、シナイ半島奪還のためにサダトが進めた対イスラエル和平は、アラブ・イスラム世界では“変節”ないしは自国の国益のためにパレスチナを売り渡す卑劣な行為と受け止められ、エジプトは次第にアラブ世界で孤立していきます。そして、1981年10月6日、第4次中東戦争の勝利から8周年を祝う軍事パレードを閲兵中、サダトはいわゆるイスラム原理主義の信奉者であった軍人に暗殺されるという悲劇的な最後を迎えることになるのです。


 最近、石油の値段が高騰し、テレビなどでは1973年の(第1次)石油危機のときの映像が時々流れたりしています。そこで、石油危機の原因となった第4次中東戦争の開戦日に当たる10月6日にちなんで、今日は、こんな切手を取り上げてみました。

 ブラジルのご夫妻

 いよいよ『皇室切手 』の刊行日(奥付上は10月19日)まで、あと2週間になりました。早ければ、来週末には一部の書店の店頭に実物が並んでいると思います。見かけたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。


 また、『皇室切手 』の刊行後の10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。また、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。池袋の<JAPEX >とあわせて、是非、遊びに来ていただけると幸いです。


 で、現在、その切手の博物館 では、皇室切手展の姉妹展として世界の女王様展を開催しているのですが、本日発売の『週刊文春』にその紹介記事が掲載されました。そこで、記事で取り上げられた切手の中から、今日は↓の1枚をご紹介します。


 皇太子訪伯


 この切手は、1967年5月、当時の皇太子ご夫妻の訪伯(伯はブラジル)に際してブラジル側が発行したものです。


 さて、1945年の敗戦とともに、日本国内では天皇を現人神とする考え方は公式には否定されましたが、直接に大戦を経験しなかったブラジルの日系社会では、その後も祖先崇拝と結びついた天皇崇拝は続いていました。


 その後、日系人がブラジル社会で重要な地位を占めるようになると、ブラジルの日系社会は、自分たちの節目の年に日本から皇族を招いて記念式典を開催したいと考えるようになります。その結果、1958年の日系移民50年祭に三笠宮が訪伯されたのを皮切りに、節目の年ごとに日本から皇族が訪伯しています。で、1967年は、実質的な移民60年との位置づけで、皇太子ご夫妻の訪伯が実現したという訳です。


 切手が発行された1960年代には、ブラジルの日系社会でも、以前のような天皇崇拝は薄らいでいたものの、皇太子ご夫妻の沿道に”見に行く”と言って親の世代から“拝みにいく”ものだとたしなめられた若者も少なくなかったと報告されています。また、皇太子の訪伯時には、中東情勢が極端に緊迫し、6月には第3次中途戦争が勃発していますが、ブラジルのメディアは日本の皇太子関連のニュース一色だったそうです。


 切手そのものをみてみると、写真の切り抜きが何となくラフなところや、背景の赤い菊花紋章とそれを太陽になぞらえた光線風のストライプ(やっぱり、“拝みに行く”相手はこうでなくっちゃ)などが、時代を彷彿とさせて、結構、インパクトがあります。今回の『皇室切手 』も、ポップな感じのイメージでカバーを作るのなら、この切手を使ったコラージュも悪くないかなと思っていたのですが、やはり、“皇室”の硬質なイメージを前面に出した方がよいだろうということで、このプランは早々に没になりました。

 
 まぁ、カバーでは没になりましたが、『皇室切手 』の本文では、この切手についてもそれなりのスペースを割いて説明していますから、よろしかったら、お読みいただけると幸いです。

 北朝鮮で使われた日本製の葉書

 昨日一昨日 と第二次大戦後のヨーロッパでの分割占領の話を書きましたが、分割占領といえば、やはり、朝鮮半島のことにも触れないわけに行かないでしょう。

 

 1945年8月の段階で、ソ連が日本降伏後の朝鮮半島に衛星国を建設するという明確なプランを持っていたのに対して、アメリカは朝鮮半島の戦後処理についてなんら具体的な計画を持っていませんでした。このため、とりあえず、暫定的な境界線として北緯38度線が設定され、朝鮮半島は米ソによって分割占領されます。その後、同年12月にモスクワで開催された米ソの話し合いの結果、朝鮮半島を一定期間の信託統治下に置くというプラン(モスクワ協定)が決定され、発表されます。これに対して、即時独立を求める南朝鮮(大韓民国はまだできていません)では大規模な反対闘争が発生。これに対して、ソ連が着々と金日成政権の地盤を固めていた北朝鮮は、ソ連の意を汲んで、信託統治に賛成の意向を示します。そして、それに引きずられるかたちで、南朝鮮の左翼勢力も信託統治に賛成を表明し、南朝鮮は信託統治の是非をめぐって社会的に混乱しました。


 さて、ソ連は、モスクワ協定の段階では、朝鮮に南北統一の政府を作ることも考えていましたが、その後の南朝鮮の状況を見て南北の統一は無理と判断。とりあえず、自分たちが占領している北半部だけでも、自分たちの意のままになる政府を作り、そこから、影響力を南半部にも拡大していこうとする民主基地路線に大きく舵を切ります。そして、1946年には、事実上の北朝鮮政府として北朝鮮臨時人民委員会を発足させ、南北分断に向けての第1歩を踏み出すのです。


 さて、↓は、その北朝鮮臨時人民委員会の統治下で差し出された葉書です。


 北朝鮮の葉書


 葉書は日本時代のものを接収し、漢字の郵便葉書や朝鮮のハングル表示、額面の五十銭などの文字が入った赤い印を押したうえで使用したものです。この印には、印色や額面などでいろいろとバラエティがあるのですが、それらを全部そろえるのは容易ではありません。葉書は1947年9月に城津から差し出されています。この城津は、後に北朝鮮の要人であった金策にちなんで改名され、現在は金策となっています。


 ちなみに、1945年以降しばらくの間は、南朝鮮でも日本時代の葉書が使われていました。


 我々は、ともすると1945年8月15日を境に、その前後で、日本時代と解放後がデジタル的にスパッと切り分けられるような錯覚を持ちがちですが、人々の生活レベルでは、そうそう簡単に前時代の“遺産”が消滅してしまうわけではありません。そういう当たり前のことを、こうした葉書は改めてわれわれに教えてくれているような気がします。


 さて、10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後世界の形成”と題する作品を出品する予定です。朝鮮半島に関しては、この葉書を含め、1948年に南北両政府が発足するまでの歩みを切手や郵便物でたどります。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。


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 ドイツとオーストリアの差

 昨日の記事 では第二次大戦後のドイツの分割の話を書きましたが、今日は、その隣のオーストリアの話を一くさり。


 終戦までドイツと一体だったオーストリアは、敗戦後、ドイツと分断された上、米英仏ソの4国によって全土が分割占領されました。首都のウィーンが分割占領された点も、ドイツと同様です。ただし、ドイツがナチス政権の崩壊によって中央政府を喪失したのに対して、オーストリアの場合は、1938年の独墺併合(ナチス・ドイツによる併合)によって消滅していたオーストリア政府が終戦とともに復活。第2共和制が発足したことで、ドイツのような国家分断の悲劇を免れることになりました。

 

 そういった予備知識を頭に入れた上で、↓のカバーを見ていただきましょう。


 オーストリア検閲カバー


 このカバーは、1946年7月、イギリス占領下のグラーツからイタリア宛に差し出されたもので、占領当局によって開封・検閲されています。当局が開封・検閲したことを示す印に“IN DER BRITISCHEN ZONE”の文字がしっかりと入っているので、この地域がイギリス占領下に置かれていたことが一目で分かります。


 4国に分割占領されていたオーストリアは、1955年に独立を果たし、永世中立国として国際社会に復帰します。今年はその50周年でもあるのですが、日本でも、どこかで何かイベントでもやってるんでしょうか。ちょっと、気になっています。


 さて、10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後世界の形成”と題する作品を出品する予定です。作品は日本を含むアジア地域が中心ですが、スペースの許す限り(おかげさまで、“1945年”の企画コーナーでは、予想を大幅に上回る作品があつまり、僕の展示も当初の予定を大幅に圧縮することになりました)、ヨーロッパの事情についても若干触れたいと思っています。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。


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 東ドイツのルーツ

 東西ドイツが統一されたのは1990年10月3日のことでしたから、15年前の10月2日は、“東ドイツ”最後の日だったということになります。で、東ドイツ(ドイツ民主共和国)という国が正式に発足したのは1949年のことでしたが、そのルーツは第二次大戦後、ドイツが米英仏ソの4国によって分割占領されたことにまでさかのぼります。


 その第二次大戦後のドイツ占領後初期のカバー(封筒)の実例として、こんなものを引っ張り出してみました。


 墨塗りヒトラー


 このカバーは、ナチス降伏から1ヵ月後の1945年6月8日、ドレスデンから差し出されたものです。ドレスデンはザクセン州の州都で大戦末期の1945年2月、連合国の空襲を受けて市内の中心部はほぼ灰燼に帰し、戦後はソ連軍の占領下に置かれました。


 さて、ナチスの時代、ドイツではヒトラーの肖像切手が日常的に使われていましたが、敗戦とともにこの切手は使用停止となります。とはいえ、新しいデザインの切手を用意するためには相応の時間が必要ですから、しばらくは、ここに示すように、ヒトラーの肖像部分を塗りつぶした切手が使われていました。


 その後、米英仏ソの占領地域では、米英地区・フランス地区・ソ連地区それぞれが独自の切手を発行し始めます。一時、米英地区とソ連地区は共通の切手を使ったこともありますが、東西冷戦の進行とともに、1949年には東西分断国家が誕生し、以後、1990年にいたるまで両国は別個の切手を発行し続けることになります。


 10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後世界の形成”と題する作品を出品する予定です。作品は日本を含むアジア地域が中心ですが、スペースの許す限り(おかげさまで、“1945年”の企画コーナーでは、予想を大幅に上回る作品があつまり、僕の展示も当初の予定を大幅に圧縮することになりました)、ドイツの分割占領についても多少は触れたいと思っています。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。