台湾名と日本名 | 郵便学者・内藤陽介のブログ

 台湾名と日本名

 今日(10月25日)は、日本の植民地だった台湾が中国側に接収されてから60周年の日に当たります。これを記念して、北京では抗日記念イベントが大々的に行われるとのことで…。


 中国国民政府が台湾を接収した根拠は、1943年のカイロ宣言ですが、これはあくまでも“宣言”であって、法的な拘束力はありません。したがって、本来であれば、1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が台湾の領有を放棄した後、台湾の次の帰属を正式に決める必要があったのですが、1949年の共産中国の誕生により、敵対する国民政府が台湾に逃げ込んだことで、そうした手続きが行われず、台湾の正式な帰属は宙に浮いたまま現在にいたっています。したがって、現在の中国政府の台湾に対する領有権の主張は、厳密にいえば、国際法上の根拠はなにもありません。そもそも、中国の正統政権がどの政府であるのかということと、その政府が台湾を支配するのか否かということは、まったく別の次元の話なのですが、そういうことをいっても、まぁ、現在の中国共産党政権は聞く耳を持たんのでしょうがね。


 さて、終戦直後の台湾に関しては、こんなカバー(封筒)があるので、ご紹介しておきましょう。


 台湾数字カバー


 終戦直後の台湾では、終戦直前の日本時代に製造された切手を接収して「中華民國 臺灣省」の文字を加刷した切手が使われていました。このカバーに貼られているのも、そうした1枚です。


 さて、このカバーでご注目いただきたいのは、宛名に改名(日本名)と旧名(台湾名)が併記されている点です。


 台湾では、戦時中、苗字を日本風に改める改姓名運動が行われました。このカバーの名宛人もそれに従って日本名“吉川秀雄”を名乗り、日本兵として出征したものと思われます。ところが、終戦後、台湾が日本の植民地支配から解放されると、“吉川秀雄”は旧名の“載晩”にもどります。もっとも、このカバーが差し出された時点では、載晩氏は復員してきておらず、周囲の人々は彼を“吉川秀雄”としてしか認識していません。このため、差出人は、手紙が確実に届くように、日本名と台湾名を併記したものと思われます。


 なお、当時の規則では、旧外地・戦地で復員を待っている将兵宛の郵便物は葉書に限って認められており、封書の差出は認められていませんでした、このため、このカバーも規則違反として差出人に返送されています。


 いずれにせよ、国家の制度的な帰属がどのように変わろうと、そこに生きている人々の生活は、そうそうデジタル的に切り替わるものではなく、旧制度が残存する中で緩やかにしか変わっていかないのは当然のことです。年表式に歴史を考えると、どうしても、その辺の感覚が希薄になってしまいますが、このカバーはそうした当たり前のことを目に見えるかたちで示してくれているといってよいでしょう。


 さて、今週金曜日10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品しますが、作品では、このカバーも含め、日本や中国の終戦前後の状況をさまざまな角度から再構成しようと考えています。是非、週末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです

 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 39) のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようになっていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。