郵便学者・内藤陽介のブログ -6ページ目

 ルブリンからワルシャワへ

 第二次大戦当初、ポーランドの東半分を占領したソ連は、独ソ戦の勃発により占領地を失いますが、その後、アメリカの支援を受けてドイツ軍を駆逐し、ポーランドにおける占領地域を拡大していきます。そして、1944年7月には占領地域のルブリンを首都とする親ソ政権(いわゆるルブリン政権)を樹立しました。


 1944年8月、昨日の日記でご説明した“ワルシャワ蜂起”がおこると、国内軍を見殺しにしたソ連は、かねてからのプランに沿って、ルブリン政府を戦後のポーランド政府として育成し、ポーランドを自国の藩屏となる衛星国として確保するための具体的な行動を開始します。


 こうした中で、1944年9月、ルブリン政府は自らの存在をアピールするために独自の切手発行を開始しますが、その実際の使用例が↓です。


 ポーランド戦後初期


 この葉書は、1945年2月5日、ワルシャワからジュネーヴ宛に差し出された葉書ですが、途中、イギリスの占領地域を通過する過程で検閲を受けています。左側の切手は国章の鷲を描くものに“P.K.W.N”の文字が加刷されていますが、これは、後にポーランド共産党の母体となる“ポーランド国民解放委員会”のことです。なお、ドイツの占領下にあったワルシャワがソ連軍によって解放されるのは、この葉書が差し出される2週間ほど前の1945年1月17日のことでした。


 1945年2月、戦後の国際秩序を決めたヤルタ会談がはじまると、ロンドンの亡命政権と、ルブリン政権のどちらを正統政府とするかで、英ソは激しく対立。結局、アメリカのとりなしで、総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、また新生ポーランド国家の領域を、戦前よりも大幅に西へ移動させることで決着がはかられました。


 ところが、選挙のためにロンドン亡命政権の指導者がポーランドに戻ると、ソ連の息のかかったルブリン政権は彼らを逮捕し、裁判にかけてしまいます。この結果、ポーランドの共産化は決定的となりましたが、このことが米英を強く刺激し、東西冷戦が幕を開けることになるのです。


 10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >に出品予定の「“戦後”の誕生」の第一部は「欧州:東西冷戦の開幕」というミニコレクションですが、昨日 と今日のこのブログでご紹介したポーランド問題は、その前半の重要なポイントとなっています。本来であれば、ポーランド情勢だけで充分1フレーム(16リーフ)を構成しても面白いのですが、スペースの都合で、今回の展示では大幅に圧縮せざるを得ませんでした。その分、展示では他のヨーロッパ諸国の状況についてもスペースを割きましたので、是非、来週末は池袋で実際の作品をご覧いただけると幸いです。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 35) のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようになっていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。

 ポーランド亡命政府

 いよいよ<JAPEX >(10月28~30日、東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催)と反米の世界史展(11月1~10日、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館で開催)が迫ってきました。というわけで、ここ数日、その最終追い込みに追われる日々が続いています。


 作品制作は余裕をもって行うべきだとお考えの方からすると、僕のようにギリギリまで作業をしている人間は段取りが悪いということになるのかもしれません。しかし、僕自身は、どんなものを作る場合でも、自分を追い込んで、最後の一瞬まで粘って頑張ったほうが、結果として良いものができると信じています。“火事場の馬鹿力”ってのは、けっこう侮れないものですからね。まぁ、この辺は人それぞれなので、どちらが正しいという筋合いのものではないのですが…。


 さて、<JAPEX >の特別展示“1945年”のコーナーに出品する「“戦後”の誕生」は、欧州・日本・中国(含台湾・香港)・朝鮮・東南アジアの5つの地域それぞれの、第二次大戦の終戦直後の状況をまとめた5つのミニコレクションから成り立つ短編集のような作品とお考えいただければよいかと思います。で、現在、最終チェックとあわせて本格的に手を入れているのが、作品の構成上は一番最初に来る「欧州:東西冷戦の開幕」の部分です。


 東西冷戦のルーツをどこに求めるかは、いろいろと議論が分かれるかと思いますが、とりあえず、ポーランド問題をめぐるソ連と西側の対立が一つの発火点となったことは間違いありません。


 第二次大戦中、独ソ両国によって分割されたポーランドの旧政府は、当初はパリに、後にロンドンに亡命政権を樹立。1941年の独ソ戦勃発以降は、ポーランド全土を占領したドイツ軍と戦っていました。


 1944年、ドイツが敗走を重ねる中で、ソ連軍の解放地域がワルシャワ近郊にまで及んでくると、ポーランド亡命政府系の国内軍は、それに呼応するかたちで8月1日にワルシャワでの武装蜂起を行います。いわゆるワルシャワ蜂起です。しかし、戦後のポーランドを衛星国化する意向を既に固めていたソ連は、親英的な亡命政府がポーランドに復活することを望まず、ワルシャワを目前にして進軍をストップ。イギリスの度重なる要請にも関わらず、蜂起を援助しなかったどころか、イギリスによる支援も妨害しました。この結果、ワルシャワ蜂起は失敗に終わり、ドイツ軍による懲罰的攻撃によってワルシャワは徹底的に破壊にされ、レジスタンス・市民約22万人が虐殺されました。


 ポーランド亡命政府は、失敗に終わったワルシャワ蜂起を宣伝する切手を発行し、自分たちこそがポーランドの解放のために戦っていることをアピールしようとしています。この亡命政権の切手が貼られたカバー(封筒)が↓です。


 ワルシャワ蜂起


 一般に、亡命政権の切手というと、実際の郵便には使えないラベルのようなものが多いのですが、ポーランド亡命政府に関しては、“ポーランド(もちろん、亡命政府のことですが)”船籍の船で運ぶ郵便物などで実際に使用されました。このカバーもその一例で、1945年2月3日にロンドンの亡命政府からニューヨークの亡命政府の大使館宛に送られたもので、裏面には3月19日の到着印も押されています。


 こうして、ワルシャワ蜂起を見殺しにし、亡命政府に打撃を与えた上で、いよいよ、ソ連はポーランドに衛星国を樹立するのですが、その辺の事情を語るマテリアルについては、機会を改めてお話しすることにしましょう。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 34) のコーナーを作って、<JAPEX >の特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようになっていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。

 We Say Yes

 僕にとっては、今日(10月19日)は『皇室切手』の刊行日ということが一番大事ですが、世の中全体からすれば、なんといっても、サダム・フセインの初公判のほうがはるかに重要でしょう。


 フセイン政権下のイラクでは、フセインの肖像を描く切手は山のように発行されました。それらは、その時々の状況に応じて、フセインの服装やポーズなどにさまざまバリエーションがあり、非常に興味深いのですが、今日はその中から、非常に分かりやすいプロパガンダの1枚をご紹介しましょう。



 サダム・フセイン


 カバー(封筒)に貼られている切手は、1995年に行われた大統領信任を問う国民投票で、フセインが99.96%という高得票率で信任を得たことをアピールするために発行されたものです。単片の切手を持ってきても良かったのですが、この切手が実際に郵便に使われていたことを示すため、オーストラリア宛のカバーに貼られたものを持ってきました。


 切手のデザインは、我々の感覚からすると、かなりシュールです。なにせ、ハート型の枠の中ににっこり微笑むフセインの写真が埋め込まれ、印面下部には英語で“WE SAY, YES, SADDAM”(その上にはアラビア語でも同じ意味のフレーズが書かれています)というフレーズが入っているわけですから…。


 切手を発行したフセイン政権としては、「国民からは絶大な支持を得ているフセインを国際社会が退陣に追い込もうとしているのは内政干渉だ!(そういえば、小泉首相の靖国神社参拝は中韓両国のいいがかり抗議と反発にも関わらず、世論調査では賛成が多数派だそうです)」と言いたかったんでしょうが、それにしても、フレーズが“WE SAY, YES”ですからねぇ。アメリカと対決するのに、コカコーラのさわやかイメージで売り出してどうする、と突っ込みたくなるのは僕だけでしょうか。


 この他にも、フセイン政権下のイラクの切手は、いろいろと面白いものがテンコ盛りなのですが、ご興味をお持ちの方は、詳しくは、6月に刊行した前作(そうだよなぁ、もう最新作じゃなくなったんだよなぁ)『反米の世界史 』(講談社現代新書)をご覧いただけると幸いです。なお、11月1~10日には、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。この展覧会は、その名の通り、『反米の世界史 』でつかった図版の実物を中心に展示するというものです。入場は無料ですから、是非、遊びに来てください。

 旅大の靖国神社

 今朝起きてみたら、アクセスカウンターが2万を越えていました。無名のモノ書きのマニアックなブログに、こんなに大勢の方が遊びに来てくださるとは、はじめるまでは想像もつきませんでした。3日坊主な僕が、まがりなにりも、数ヶ月間、一日も途切れることなくブログを更新してこられたのも、ひとえに、皆様のおかげです。これからも、精一杯、頑張っていきますので、ご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。


 さて、今日の話題は、なんといっても、昨日(17日)小泉首相が靖国神社に参拝したことでしょう。靖国神社がらみの切手としては8月14日の記事 で取り上げたもののほかに、ひねったところでこんなものをご紹介しましょう。


 遼寧加刷


 この切手は、1945年の終戦後、ソ連軍占領下の旧関東州(旅大地区。“旅大”は旅順と大連の意味)で発行された切手で、日本時代の靖国神社の切手に“遼寧郵政”の文字が加刷されています。


 加刷に用いられた切手は1943年2月に発行されたもので、額面の17銭は、当時の書留および速達の料金(書状の基本料金5銭+特殊取扱料金12銭)に相当しています。戦況が悪化し、戦死者が増えていく中で、靖国神社の切手に17銭という額面を当てはめたのは、英霊を大切に扱い(=書留)、あるいは、英霊が速やかに靖国へ行く(=速達)という意図が込められていたのかもしれません。


 さて、この切手は、当時の日本の租借地であった関東州でも日常的に使われていました。それが、戦後、ソ連側に接収され、オリジナル・デザインの切手が発行されるまでの急場しのぎとして、このような加刷を施されて使用されたというわけです。


 ちなみに、このとき加刷に用いられた切手は、この靖国神社の切手の他に、水力発電所の3銭切手、東照宮陽明門の6銭切手、オーロワンピ灯台(日本の植民地だった台湾の南端にある灯台)の6銭切手と、隣接する旧満州から持ち込まれた切手数種類です。このラインナップを見てみると、とりあえず在庫として十分な量が残っていたものを接収して加刷したというより、加刷に用いる切手を選択する際に、何らかの意図が働いたと見るほうが自然なように思われます。


 おそらく、靖国神社の切手に関しては、大鳥居を塗りつぶすかのように加刷を施すことで、“日本軍国主義に対するソ連赤軍の勝利”を利用者に印象づける狙いがあったのでしょう。戦勝国ならではの発想といっても良いかもしれません。そういえば、現在の中国政府も抗日戦争の勝者でしたっけ。


 なお、この切手の加刷は田型(2×2)単位で行われました。画像には田型をアップしてみましたので、ご興味がある方は、それぞれの切手の加刷文字の微妙な違いなどを比べてみるのも一興かと存じます

 さて、10月28~30日(金~日)に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品しますが、その一部で、この切手をはじめ、台湾・香港も含めた中国世界の状況を語るマテリアルも展示する予定です。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 33) のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する過去の記事をまとめてみました。展示の予告編としてご覧いただけるようになっていますので、よろしかったら、クリックしてみてください。

 溥儀の訪日

 今日(10月17日)は、愛親覚羅溥儀の命日です。というわけで、溥儀に関する切手の中から、今回は、新刊の拙著『皇室切手 』でも取り上げたこの1枚をご紹介しましょう。



 溥儀訪日


 

この切手は、1935年4月、溥儀の訪日を記念して日本が発行した記念切手4種のうちの1枚で、満州国のシンボルでもあった遼陽の白塔をバックに、溥儀のお召し艦“比叡”を描いたものです。余談ですが、このときの“比叡”の艦長は、あの井上成美です。


 1932年、満州国の建国にあたって関東軍は旧清朝の廃帝であった溥儀を担ぎ出します。その際、関東軍は溥儀に対して皇帝の椅子を約束しますが、実際に建国された満州国は共和制で、溥儀の立場も皇帝ではなく執政でした。当然、溥儀はこのことに不満でしたから、1933年に満州事変が一応の終息を迎えたのを受けて、1934年3月、関東軍は約束どおり彼を皇帝の地位につけました。


 その“お礼”と報告を兼ねて、関東軍のお膳立てで1935年4月、溥儀は日本を訪問し、昭和天皇に拝謁。“日満親善”を謳いあげる広告塔としての役割を担わされます。


 溥儀の訪日に際して、日本の国民はこれを熱狂的に歓迎しました。このことについては、政府や軍のキャンペーンに国民が踊らされたという面も否定はできないのですが、それ以上に、“皇帝陛下”と名のつく外国人の来日は、このときの溥儀が最初のケースであったことも大きかったのではないかと僕は考えています。


 古今東西を問わず、皇族ないしは王族というのは、一般大衆にとっての“スタア”です。このことは、亡くなったイギリスのダイアナ元皇太子妃を見れば、よく分かるでしょう。実際、1921年、皇太子時代の昭和天皇はヨーロッパ諸国を歴訪していますが、各国の世論が日本に対して必ずしも好意的ではなかった当時においても、極東から来た若きプリンスは熱烈に歓迎されています。


 したがって、溥儀に対する日本国民の歓迎には、ある種、外国の“皇帝陛下”に対する素朴な憧れの感情という側面があったと考えてもあながち間違いではないように思います。


 一方、溥儀の側でも、このとき日本で受けた歓迎にすっかり酔いしれてしまい、帰国後、“囘鑾訓民詔書”を発して日本と満州国は一体であると宣言。1940年に日本の紀元2600年を祝うために訪日した際には、昭和天皇に対して天照大神を祀りたいとまで申し出ています。

 

 このように見てみると、このときの溥儀の訪日で強く感化され、日満一体を意識するようになったのは、じつは、日本の国民ではなく、溥儀本人であったと考えることも可能なのかもしれません。

 

 さて、既に一部の書店の店頭には並んでいるようですが、明後日(19日)付で『皇室切手 』が正式に刊行となります。この切手をはじめ、戦前の外地と皇室や神道の関係についてもそれなりにスペースを取って解説していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。


 また、『皇室切手 』の刊行後の10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、出版元である平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。また、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。


 1971年の天皇訪欧

 昨日(10月14日)の記事 では、昭和天皇の訪米のことを取り上げましたが、昭和天皇がアメリカの地を最初に踏んだのはこのときが最初のことではありませんでした。


 実は、1971年、昭和天皇がヨーロッパ諸国を歴訪(大阪万博で来日したベルギー国王からの招待に答えるかたちで実現した)した際、天皇の飛行機はいったん、給油のためにアラスカのアンカレッジに立ち寄っています。このとき、アメリカ側は大統領のニクソンがじきじきに天皇を出迎え、昭和天皇が最初に降り立った外国はアンカレッジであることが強調されました。

 

 じつは、当時の両国首脳の間には、天皇訪欧の際に天皇がアンカレッジを訪れることで、日本からの繊維製品の輸出規制や中国との関係などでギクシャクした日米関係を修復させるきっかけとしたいとの思惑がありました。このため、天皇の本来の外遊先はヨーロッパでありながら、政治的には、天皇がアメリカに立ち寄ることのほうがはるかに重要であるという、一種のねじれ現象が生じています。

 

 そんなことを考えながら、このときの訪欧の記念切手を見ていただきましょう。

 

 昭和天皇訪欧

 

 切手のデザインは、左側が天皇旗に菊花と鳳凰(まさか、訪欧に引っ掛けたオヤジギャグじゃないとは思うのですが)、右側が皇后の手になる「海の彼方」と題する絵です。「海の彼方」は、おそらく、外遊をイメージさせるものとして切手に取り上げられたものと思われますが、富士山の見える構図は太平洋を念頭に作られたものと考えてよいでしょう。

 

 もちろん、横浜の港から船に乗ってヨーロッパへ旅する場合にも、海から富士山は見えますが、やはり、太平洋を隔てた外国といえば、多くの日本人はヨーロッパではなくアメリカをイメージするはずです。 それゆえ、「海の彼方」は、このときの天皇外遊が“訪欧”と銘打ってはいながら、じつはアンカレッジに立ち寄ることが(政府にとっては)一番大事であるということを、切手というメディアにおいてさりげなく表現した結果ではなかったのか、と僕などは考えてしまいます。


 さて、今度の水曜日・19日付で、いよいよ『皇室切手 』が刊行となります。この切手をはじめ、戦後の“皇室外交”については、それなりにスペースを取って解説していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。


 また、『皇室切手 』の刊行後の10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、出版元である平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。また、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。

 昭和天皇の訪米

 電車の中吊り広告を見ていて気がついたのですが、今年は昭和天皇の訪米から30周年になります。


 昭和天皇は、前年(1974年)11月のフォード大統領訪日の答礼として、1975年9月30日から10月14日の日程で訪米。行く先々で歓迎を受け、太平洋戦争の古傷を癒すうえで大きな役割を果たされました。


 このように、結果的に成功を収めた天皇訪米ですが、それが実現されるまでの間にはさまざまな紆余曲折がありました。


 昭和天皇の訪米が具体的に検討され始めたのは、1973年春のことで、もともとは当時の首相・田中角栄の思いつきによるものでした。もっとも、1973年には20年に1度の伊勢神宮の遷宮が予定されていたことに加え、政府と宮内庁の間の調整不足もあって、この計画は頓挫しています。


 しかし、1973年7~8月の田中・ニクソン会談で、ニクソンが天皇訪米を日本側に要請したことからこの話が再燃。1974年2月には、駐米大使の安川壮が「年内には訪米が実現されるであろう」と発言しています。しかし、この発言も宮内庁との根回しが充分ではない段階で行われたことにくわえ、この年は参議院選挙があり、政府与党は訪米の“成果”を政治利用するのではないかとの批判ももちあがったこともあり、またもや、訪米のプランは沙汰止みとなりました。ちなみに、安川は先の自分の発言を“錯覚”として取り消しています。


 さて、昭和天皇の訪米に際しては、天皇ご夫妻が帰国した10月14日に下のような2種類の記念切手が発行されています。


 昭和天皇訪米


 デザインは星条旗に桜を配したものと日章旗にハナミズキを配したものの2種類です。ハナミズキはアメリカの国花ではありませんが、1912年に日本から桜を送られたこと(これが、ワシントンDCのポトマック河畔の桜並木のもとになった)の返礼として、アメリカがハナミズキを日本に送ったことに由来するもので、日米の友好親善を示すのにふさわしい組み合わせといえます。


 昭和天皇の訪米は、太平洋戦争の終結30年の節目の年に行われましたが、今年は、その訪米からも30年。まさに“昭和は遠くなりにけり”という感じですね。


 さて、来週水曜日・19日付で、いよいよ『皇室切手 』が刊行となります。この切手をはじめ、戦後の“皇室外交”については、それなりにスペースを取って解説していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。


 すでに見本は出来上がっていますし、アマゾンなどでの注文も可能になっています。早いところでは、この週末、一部の書店の店頭に実物が並んでいるかもしれません。見かけたら、お手にとってご覧ください。

 また、『皇室切手 』の刊行後の10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、出版元である平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。また、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。


 弁慶号

 今日(10月14日)は鉄道記念日ですから、こんな切手を取り上げて見ましょう。


 鉄道75年


 これは、終戦後まもない1947年10月に発行された鉄道75周年の小型シートです。


 9月13日の記事 でも書きましたが、1947年6月、記念切手を売って収入を増やそうという方針を立てた逓信省は、その方針に沿って、切手収集家に売るための切手としてこの小型シートの発行を計画します。その結果、鉄道75周年の切手は小型シートのみの発行とし、額面は(書状料金の1円20銭ではなく)4円として制作費1円を上乗せして5円で販売することが決定されます。


 当時、逓信省で切手政策の事実上の“ドン”として君臨していた中村宗文は、この点について、①記念切手を買うのは切手収集家だけだから(!)、実際に郵便に使用されることを考える必要はなく、実際の郵便料金に連動させなくともよい、②凹版小型シートのようにコストがかかるものは、利用者に制作費の負担を求めるのは当然である、③記念切手の発行が計画された段階では、9月からの郵便料金値上げが予定されていた(実際には値上げはなかった)ため、売価を切りよくし、同時に、需要を満たすものとして4円という額面を設定した、と説明しています。


 しかし、実際はどうあれ、「記念切手は収集家しか買わないから」という認識で、実用性の乏しい切手を発行することに対しては、肝心の収集家から激しい批判が寄せられています。しかし、こうした収集家の声は完全に無視され、逓信省は“収集家のため”と称して、戦後の記念切手濫発時代に突入し、多くの収集から顰蹙を買うことになるのです。


 さて、この切手には、1880年11月に北海道幌内線の開通に際して用いられた弁慶号が取り上げられています。弁慶号が取り上げられたのは、車両が東京・神田の交通文化博物館(現・交通博物館)に展示されていて取材が容易であったことに加え、開業当時の鉄道車両の大半がイギリスから輸入品であったなかで、この車両がアメリカ製であったことも重要なポイントでした。すなわち、逓信省としては、占領当局(本来は、イギリスも占領当局の一員だったはずですが)に気を遣ったつもりだったのです。


 さらに、同型の義経号ではなく、弁慶号が取り上げられたのは、“将”である“義経”を取り上げれば、占領当局からクレームがつくかもしれないと考えた結果だそうで、当時の時代状況が髣髴とさせられます。


 なお、この小型シートは、さすがに制作費1円を上乗せしただけのことはあって、切手としての評判は上々で、アメリカの収集家からも好評をもって迎えられました。ただ、作業日程が短かったことから、反面のインク拭取り作業が不十分で、本来、白地である耳紙にも紺青色のインクがついているものが少なくありません。なお、当時、この切手を買った人の中には、小型シートの耳紙部分にも1円の価値があるとか、シートから切手を切り取ると郵便には使えないのではないか、といったことを真剣に考える人もいたようで、笑うに笑えない落ちがついています。


 この辺の事情については、以前、『解説・戦後記念切手  濫造・濫発の時代 1946‐1952 』の中で詳しく書いたので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 中国のロケット

 昨日(10月12日)、中国が2度目の有人宇宙船「神舟6号」を打ち上げました。


 中国が宇宙開発に着手したのは、ソ連との関係が怪しくなってきた1950年代半ばのことで、1960年代初頭には、ゴビ砂漠の南辺、甘粛省・酒泉付近に東風ミサイル射場が開設されます。そして、1966年には東風1型(CSS-1)中距離弾道ミサイルの試射に成功。1970年4月には、東風3型(CSS-2)を改造した長征1型ロケットで東方紅1型衛星の打上げに成功し、ソ連、アメリカ、フランス、日本に次ぐ5番目の人工衛星打上げ国になりました。


 その長征1型ロケットを取り上げた切手の中から、今日は、こんなものをご紹介します。


 長征1型


 このカバーに貼られているのは、1974年7月、北朝鮮がまとめて発行したロケットの切手(海外に輸出して外貨を稼ぐことが一義的な目的と思われる)の1枚で、天安門を背景に切手発行のおよそ4年前に打ち上げに成功した長征1型ロケットを取り上げています。


 文化大革命の時期、紅衛兵の乱暴狼藉が原因で中朝関係は途絶していましたが、1970年になると、周恩来の努力によって中朝関係は文革以前の状態に復します。


 その後、ニクソン訪中や日中国交正常化など、中国は、かつてのソ連同様、西側との共存を目指し、朝鮮半島の安定を望むようになりましたが、1960年代後半から、“自力更生”路線の失敗で経済的苦境に陥っていた北朝鮮には中国を“修正主義者(かつてフルシチョフ時代のソ連が西側との宥和を目指した際、中国がソ連を非難して用いた表現)”として批判する余裕はありませんでした。それどころか、北朝鮮は、経済的苦境から脱するためにも、中国から見捨てられないように、中国の愛顧を取り付けることに汲々とするようになっていきます。この切手も、そうした文脈にそって発行されたものと考えてよいでしょう。


 なお、この切手と同時に発行された宇宙切手のうち、ほかの単片4種と小型シート一種はソ連の宇宙開発を題材としたものです。これは、当時の北朝鮮が対立する中ソのバランスをたくみに取って、双方から最大限の援助を引き出すことを目指す“天秤外交(振り子外交)”を展開していたためで、その意味では、中国のロケットが描かれた切手が貼られたこのカバーが、モスクワ宛に差し出されていることとは、なんとも暗示的です。


その後、長征型ロケットは打ち上げ失敗の時期が続きましたが、1996年以降は連続成功記録を伸ばして安定性も評価されており、2003年にはソ連・アメリカについで世界で3番目の有人宇宙飛行も成功させました。近年、中国製のロケットは、そのコストの安さもあって、世界の商業衛星打ち上げ市場で急速にシェアを伸ばしています。宇宙開発に関して、中国側は、宇宙空間の平和利用を主張してはいますが、中国の宇宙開発関係機関の多くは人民解放軍の機関と言われていることもあり、その言葉を額面どおりに受け取るわけにはいかないでしょう。


 今回の打ち上げは、2度目ということで、日本のニュースなどは淡々と事実を伝えるだけでしたが、共産党の一党独裁体制の下、国民に“愛国教育”を施して軍拡路線に走る中国がロケット開発で着々と実績を積み重ねていることを、もう少し真剣に受け止めるべきではないかと僕などは思ってしまいます。別に、共産中国をあからさまに敵視せよとは言いませんが、巨大な隣国である彼らを警戒することは必要なはずで、どうして、中国のミサイルの脅威がもっと新聞やテレビで話題にならないのか、不思議でなりません。



 コロンブスとイザベラ

 今日はコロンブス・デイ。コロンブスがアメリカ大陸を発見した日だそうです。


 で、コロンブス関連の切手といえば、なんといってもアメリカが1893年に新大陸発見400年記念行事の一環として行われた“コロンブス博覧会”の記念切手が有名ですが、その中から今日はこの1枚をピックアップしてみたいと思います。


 コロンブスとイザベラ


 この1枚は16種セットの中の4ドル(ちなみに最高額は5ドル)で、コロンブスと彼の航海を支援したイザベラ女王の肖像を並べたものです。


 実は、米国切手に女性がとりあげられたのは、この“コロンブス博”が最初のことで、それゆえ、イザベラは米国切手に登場した最初の(実在の)女性ということになります。


 我々の感覚からすると、イザベラはアンダルスからイスラム勢力を放逐して“レコンキスタ”を達成し、スペイン統一を成し遂げた鉄の女性というイメージが強いのですが、この“コロンブス博”の切手では、他の額面で宝石を売ってコロンブスの航海を支援した彼女の姿が描かれるなど、ひたすらコロンブスを支援した女性という側面が強調されています。


 男女差別の根強かった当時の米国社会では(別に、これは米国に限ったことではありませんが)、切手という国家のメディアを通じて顕彰される女性は、あくまでも男性の成功をサポートする存在でしかありませんでした。このことは、初代大統領夫人をひたすら内助の功で支え続けたマーサ・ワシントン(ジョージ・ワシントンの妻)や、白人とネイティヴ・アメリカンとの“融和”のための人柱となったポカホンタスなどが切手に取り上げられていることからも容易にうかがえます。


 ちなみに、19世紀末のアメリカは、スペイン領のキューバを“独立”させて自国の完全な影響下におくことを虎視眈々と狙っていました。この目論見は、1898年、ついに米西戦争というかたちで火を噴くのですが(この辺の経緯については、拙著『反米の世界史 』をご参照いただけると幸いです)、その5年前に、ほかならぬスペインの女王が切手に取り上げられていたというのも、なんだか奇妙な因縁を感じさせます。


 PS 10月28~30日の<JAPEX >が終わると、11月1~10日には、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。こちらは、6月に刊行した『反米の世界史 』(講談社現代新書)の実物を展示するというものです。<JAPEX >同様、こちらにも遊びに来ていただけると幸いです。