朴憲永 | 郵便学者・内藤陽介のブログ

 朴憲永

 今朝のテレビは、昨日行われた朝鮮労働党60周年記念式典のニュースがトップで、パキスタンの地震も、ドイツのメルケル政権の発足も、なんとなく影の薄かった感じです。


 現在の北朝鮮の支配政党である朝鮮労働党は、当初、朝鮮共産党(太平洋戦争後、在地の共産主義者であった朴憲永がソウルで結成した共産党組織)の“北朝鮮分局”として発足しました。これが、1945年10月10日のことで、今回の60周年というのは、ここから起算した年周りです。


 朝鮮共産党北朝鮮分局という形式が取られたのは、当時はコミンテルンの一国一党原則が生きていたことに加え、朝鮮に南北両政府で分断されるということが想定されていなかったためです。ただ、北朝鮮を占領したソ連当局としては、この地に衛星国を建設するためには、なんとしても自分たちの息のかかった金日成が主導する共産党組織を作る必要があったわけで、彼らとしては“分局”を実質的に朝鮮における共産主義の本家として育成するつもりが当初からあったことはいうまでもありません。


 さて、朴憲永の朝鮮共産党は、1945年末からはじまった反託闘争(信託統治反対闘争。詳しくは10月4日の記事 もご覧ください)の混乱の中で、米軍政庁に抵抗する姿勢を鮮明に打ち出していました。このため、占領当局は共産党の弾圧に乗り出し、1946年9月6日、朴ら党幹部には逮捕状が出ます。このため、幹部が北へ逃れるとともに、同年11月、朝鮮共産党を中心に、南朝鮮新民党・朝鮮人民党の左派勢力が合併し、南朝鮮労働党が発足。一方、北朝鮮では、これに先立つ1946年8月、朝鮮共産党北朝鮮分局が朝鮮新民党を吸収して北朝鮮労働党をつくっていました。この南北の朝鮮労働党が、1949年6月に合併して誕生したのが、現在の朝鮮労働党の原型です。


 この時期の、朝鮮内の混乱を良く示すマテリアルとしては、こんなものをご紹介してみましょう。


 朴憲永逮捕取消嘆願書   朴憲永嘆願書封筒


 これは、朴憲永に対する逮捕令が発せられた後の1947年1月、南朝鮮(このときはまだ大韓民国は成立していない)占領の最高司令官であったホッジ中将宛に、朴の逮捕令を取り消すよう求めた嘆願書です。この時期、すでに朴は越境して北朝鮮に逃れていましたが、そのことを知らない一般の南朝鮮市民の中には、北朝鮮に突如(ソ連から帰国して)現れた金日成のような若造ではなく、戦前からの共産主義運動の指導者として名高かった朴に、統一朝鮮の政治指導者としての役割を純粋に期待していた人も少なからずいたのです。この手紙の差出人も、まさに、その一人だったのでしょう。


 ちなみに、北朝鮮に渡った朴憲永は、1949年6月に朝鮮労働党が成立すると、その中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任し、その後も、北朝鮮国家の副首相や外相を歴任します。しかし、朝鮮戦争の休戦後、金日成らとの権力闘争に敗れ、朝鮮戦争での半島統一の失敗の責任を負わされたうえ、アメリカのスパイとして処刑されるという悲劇的な運命をたどっています。


 さて、10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品する予定です。朝鮮半島に関しては、この嘆願書も含め、1948年に南北両政府が発足するまでの歩みを切手や郵便物でたどります。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 32) のコーナーを作って、特別展示“1945年”に関連する記事もあわせて、展示の予告編としてご覧いただけるようにしています。よろしかったら、クリックしてみてください。