郵便学者・内藤陽介のブログ -19ページ目

 『反米の世界史』予告編(7)

 昨日(12日)に続いて、中東ネタです。


 1979年のイスラム革命からホメイニーの亡くなるまでの間、イランでは切手をプロパガンダの手段として積極的に活用しており、かなりどぎつい反米切手を数多く発行しています。たとえば、「アメリカ大使館占拠X周年」なんて名目で、目隠しをされて後ろ手に縛られた大使館員を大きく取り上げた切手や、大使館の建物と崩れ落ちたCIAの紋章を描いた切手などが、毎年、発行されていました。


 この手の切手をご紹介するたびに、必ずといっていいほど、「はたして、こんな切手実際に貼って使う奴がいるのかね?」というご質問を頂戴します。


 そこで、今日はそういうイランの反米切手が実際に郵便に使われた例(↓)をご紹介しましょう。


 イランのカバー


 このカバー(封筒)に貼られているのは、イラン・イラク戦争末期の1988年、ペルシャ湾に停泊中の米軍艦船から発射されたミサイルがイランの民間機を撃ち落としたことに。抗議して発行された切手です。星条旗の艦船から発射されるミサイル、爆発する飛行機、湾岸の火の手など、イラン側から見た“大悪魔”アメリカの非道が分かりやすく表現されています。


 さて、カバーは、1988年12月、アフワーズから、なんと、アメリカはプリンストンのトフル(そうです。あのTOEFLです)事務局宛に差し出されています。トフルへ手紙を出す(おそらく、何らかの問い合わせでしょう)くらいですから、差出人は、当時のイラン社会では、アメリカに対して比較的親和的な感情の持ち主だったと考えられます。それだけに、貼られている切手とのミスマッチがなんともいえない雰囲気をかもし出しています。


 一方、この手紙を受け取ったトフルのスタッフは、どのように反応したのでしょうか。この点にも興味があります。もっとも、僕のような人間は別として、郵便物というのは中身が重要で外側に貼られている切手なんてどうでもいいという人も少なくありません。案外、このカバーの場合も、そういう事情で、受け取ったトフルのスタッフや配達した郵便局員なんかは、なーんにも考えずにスルーしてしまったのかもしれませんね。


 さて、今週刊行の『反米の世界史』では、今回ご紹介したカバーも含め、革命イランの発行した反米切手の数々を、“お腹いっぱい”になるまでお見せします。そして、一見、闇雲に発行されているかに見える、そうした反米切手にも、すべて、その時々のイランの政治的・社会的状況が色濃く反映されているのだということを明らかにしています。


 ご一読いただけると幸いです。


 PS 昨晩から今朝未明にかけ、原因は不明ですが、日記の文章が3時間以上更新されないなどの不具合がありました。ご訪問いただいた方の中には、一部、ご不便・ご迷惑をおかけした方があるかもしれません。お詫び申し上げます。

 アラブの都市の物語・拾遺

 9日の日記でNHKラジオの中国語講座のテキストで連載している「外国切手の中の中国」の話を書きましたが、おなじくNHKのアラビア語講座のテキストで「切手に見るアラブの都市の物語」という連載も持っています。


 中国語のテキストは月刊でアラビア語は隔月刊ですが、いずれも、発売日は18日なので、2ヶ月に1度は、中国語の原稿を出したら、すぐにアラビア語の原稿をつくらねばならないというスケジュールになっています。(中国語の原稿を先に出すというのは、単純に、編集部からの督促が早いという理由です)


 「切手に見るアラブの都市の物語」は、タイトルの通り、毎回、アラブの都市を一つ取り上げて、その歴史や文化、特色などを、切手や郵便物を用いて紹介するというもので、去年の4・5月号からスタートしました。いままでに取り上げたのは、バグダード、カイロ、ドバイ、ダマスカス、サナア(イエメン)、エルサレム、アルジェ、マナーマ(バハレーン)の8都市。今回は、シリア軍のレバノンからの撤退が話題になっていることでもありますし、7月18日発売の8・9月号では、ベイルートを取り上げることにしました。


 で、その原稿に使いそこなったモノ(↓)がありますので、今日の日記でご紹介します。


 PFLP宣伝ラベル


 ご注目いただきたいのは、カバー(封筒)の左側に貼られているラベルです。


 これは、PLO(パレスチナ解放機構)の非主流派で、過激な武装闘争路線を掲げていたPFLP(パレスチナ民族解放戦線)の作った宣伝ラベルで、旅客機の爆破を成功させた同志をたたえるデザインとなっています。封筒の左側には、パレスチナ解放闘争への支持を訴えるイラストとアラビア語の文言も印刷されており、プロパガンダ色の非常に濃厚な一品です。


 1970年9月、ヨルダン政府と対立して弾圧され、ヨルダンを追われたPLOは、1982年にイスラエルによるベイルート包囲によってテュニスへの撤退を余儀なくされるまで、ベイルートを拠点に反イスラエル闘争を展開していました。その一環として、PFLPやアラファトの組織であるファタハなどは、自らの存在と主義主張をアピールするため、切手状のラベルを作成。支持者たちはそれらを郵便物に貼ることで、彼らのプロパガンダ戦略の一翼を担っていました。ただし、これらのラベルは、所詮はラベルですから、切手としての効力はなく、郵便物を差し出す場合には、別にレバノン政府が発行した切手を貼らなければなりませんでした。


 今回のカバーは、数年前、PFLP関連のモノということで手に入れたもので、つい先ほど原稿を書くまで、ベイルートから差し出されたものとばかり思い込んでいました。そして、今回、ベイルートの物語を書くに当たって、かの地での反イスラエル闘争の一端を示すものとして、「アラブの都市の物語」でも使おうと考えていました。


 ところが、消印をよく見ると、(レバノンの)トリポリとなっているではありませんか!そこで、今回の仕事では、デザインがはるかに大人しいファタハのラベルを貼ってベイルートから差し出されたカバーを使うことにして、PFLPは泣く泣く、引っ込めることにしました。もっとも、NHKの教育番組のテキストですから、このカバーみたいに、どぎつい(絵的にはどことなく素朴な感じが漂っていないわけでもありませんが)ものは、編集部で没にされてしまったかもしれません。


 いずれにせよ、せっかく探し出してきたので、このまま、かび臭い僕の書斎でまた埋もれさせてしまうのは、ちょっともったいない気がしたので、この日記に登場させて見たという次第です。

 

 『反米の世界史』予告編(6)

 公開のブログを始めてから、10日が過ぎました。1日に10人くらい、まぁ20人も遊びに来ていただければ“御の字”と考えていたので、1日100人以上もの方からアクセスしていただき、はやくもカウンター(ダブりなし)が1000を超えたのは、ちょっとビックリです。これからも、よろしくお付き合いください。


 さて、1000を超えたということで、今日は、この切手(↓)をご紹介します。


 米軍機撃墜


 この切手は、ベトナム戦争中の1966年4月、ベトナム民主共和国(北ベトナム)が発行したもので、米軍機1000機撃墜の記念切手です。1000という数字の中を米軍機が火を噴いて落ちていく、なんともわかりやすいデザインです。


 ベトナム戦争中、北ベトナムは米軍機の撃墜数が節目に達すると、そのたびに、強烈なデザインの記念切手を発行してきました。その最初のものが、1965年8月の500機撃墜記念の切手で、今回ご紹介のものは2番目になります。その後も、1973年11月には4181機撃墜記念の切手が発行されて“打ち止め”になるまで、1966年10月には1500機撃墜、1967年6月には2000機撃墜、同11月には2500機撃墜、1968年6月には3000機撃墜、1972年6月には3500機撃墜、同10月には4000機撃墜、の記念切手が発行されています。


 来週刊行予定の『反米の世界史』では、そうした北ベトナムの米軍機撃墜記念切手を全てご紹介しているほか、第2次大戦の終結以来、30年間にわたって繰り広げられたインドシナの戦争を、切手や郵便物を使った歴史絵巻として再構成しています。


 是非一度、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 『反米の世界史』予告編(5)

 アジアがらみのネタが続きましたから、今日は毛色の変わったところで、南米キューバのカバー(封筒)をご紹介します。


 キューバの宣伝ラベル

 

 このカバーは、1959年12月、キューバのサンチャゴ・デ・クーバからアメリカ・オハイオ州宛に差し出されました。1959年といえば、カストロの革命が成就しバティスタ政権が打倒された年です。


 バティスタ政権下のキューバは、中南米の独裁政権にありがちな腐敗と汚職に満ち溢れていました。カストロの革命は、独裁政権下でのあまりにも不平等な社会システムや極端な富の偏在を是正することを目的として始まったもので、当初は、必ずしも社会主義政権の樹立を目指したものではありませんでした。


 しかし、1959年5月、革命政府が、小作人への土地分与を目的とした土地改革と不正蓄財の没収を実施すると、アメリカは猛反発します。バティスタ政権下では、アメリカ系の資本が政府と結びついて巨額の利益を上げており、カストロの改革は、そのトラの尾を踏む結果となったからです。このため、革命政権の方向性を見極めようとしていたアメリカは、カストロの革命を“アカ”と認定し、経済制裁や空爆などを行い、革命を頓挫させることを目論むようになりました。


 さて、そうした背景事情を頭に入れた上で、カバーに貼られている横長で緑色のラベルにご注目ください。


 ラベルには、次のように書かれています。


 我々の革命は共産主義者(によるもの)ではない。

 我々の革命は人道主義者(によるもの)である。

 キューバ人はただ、教育の権利、労働の権利、不安なく食べる権利、平和・正義・自由の権利を望むだけである。


 当時のキューバ人たちは、このようなラベルを外国宛の郵便物に貼って、自分たちの革命に対する国際社会、なかでもアメリカ国民の理解を得ようとしたのでした。郵便物が宛先に届くまでの間に多くの人の手を経ることに注目し、郵便物そのものをメディアとして活用しようとしたのです。

 しかし、キューバの革命を赤色革命であると信じて疑わないアメリカは、カストロ個人の暗殺計画を含め、革命政権の転覆を画策し続けます。そして、その結果、カストロは“敵の敵”であるソ連と急速に接近していくことになり、それがまた、アメリカとの対立を激化させていくという悪循環に陥っていくのです。


 6月16日に刊行予定の『反米の世界史』(講談社現代新書)では、そうしたキューバとアメリカの関係についても、切手や郵便物を通じて歴史的にたどっていきます。そして、キューバ危機がもたらした“反米勢力”の亀裂についても、当時の共産圏諸国のさまざまな切手を分析することで明らかにしようとしました。


 是非、ご一読いただきますよう、よろしくお願いいたします。

 外国切手の中の中国

 昨日(8日)はバタバタしていて日記に書きそびれたことを書きます。


 現在、いくつかの媒体で連載を持っていますが、そのうちの一つが、NHKラジオ中国語講座のテキストで、今年4月から始めた「外国切手の中の中国」です。


 メディアとしての切手には、自国のことばかりではなく、外国のことが取り上げられることも少なくありません。たとえば、「日米修好100年」とか、「日本におけるドイツ年」なんて名目で切手が発行されるのはよくある話で、その場合、相手の国のシンボルやイメージが切手に取り上げられるということは珍しくありません。では、中国は、中国以外の切手にどのように描かれてきたのか--そういう趣旨の下に、毎月、テーマを変えて読みきりの文章を書いているというわけです。


 で、現在、発売中の6月号では、バチカンを取り上げています。バチカンは、大陸の共産中国とは国交を断絶したままですが、1990年代に入って、前教皇(法王)じきじきの旗振りで、中国との国交樹立を目指して水面下での交渉を続けてきました。そうしたことを反映するかのように、1990年代に入ると、バチカンでは中国がらみの切手が急増します。


 バチカン切手


 ↑の切手もその1枚で、“中国への福音伝道700年”を記念して、1994年に発行されたものです。山水画を背景に、十字架を手にしたモンテ・コルヴィノの姿が描かれています。我々の目から見ると、かなりシュールで、下手をすると夢に出てきそうな雰囲気がありますが、信仰篤き人たちの目には、輝ける立派なデザインという風に映るのでしょうか。


 さて、「外国切手の中の中国」は、今月18日発売の7月号では北朝鮮を取り上げたんですが、ここのところ、北朝鮮ネタが二日続いたので、ここでご紹介するのはパスしました。で、おとといから昨日にかけて、うんうん唸って書いていたのは、太平洋戦争中のアメリカ切手のお話です。こちらについても、機会があれば、この日記でご紹介したいと思います。


 現在の予定では、連載は少なくとも来年3月までは続きますので、ご興味のある方は、毎月18日に書店に行って、チェックしていただけると幸いです。


PS 昨日、VTR撮りをしたテレビの仕事ですが、昨夜の「報道ステーション」の方は、サッカーの話に押されて吹っ飛んでしまったようです。一方、今朝の「スーパーモーニング」は、貴乃花親方のインタビューが飛び込みで入ったので、20分ぐらい、当初の予定よりも遅れましたが、無事、放送となりました。ご覧頂いた方にはお礼申し上げます。

 テレビの仕事2件、飛込みで入る

 2時すぎ、電話でテレビの仕事が2件、立て続けに入りました。どちらもテレビ朝日系列の番組で、一つは今晩放送予定の「報道ステーション」、もうひとつは、明朝放送予定の「スーパーモーニング」です。


 どちらも、至急、日本人の元脱北者で、最近、北朝鮮に戻ってしまった女性から送られてきた手紙を分析して欲しいとのこと。急いで、六本木ヒルズに向かいました。

 で、現場でビデオに写った郵便物を見たところ、


 1.差出人の住所表示が平壌だけになっている:北朝鮮の一般市民が外国宛の郵便物を出すのはかなり難しいが、きちんと住所を書かないで出したりすると、普通なら“スパイ”扱いされかねない


 2.消印が妙にキレイ:北朝鮮普通の郵便物に押されている消印は、インクが薄かったり、汚れていたりで読みにくいのが多い。それなのに、この封筒の消印は平壌(PYONGYANG)の文字がやたらとはっきり読める。まるで、読んでくださいとでもいうかのように。


3.消印の日付が正しいとすると、6月4日に平壌から差し出された郵便物が6月7日に届くというのは、ものすごく順調:通常、平壌-東京間の郵便は約1週間かかる。


 といった点が、不自然かな、と思いましたので、インタビューに答えてその旨、説明しました。


 まぁ、サッカーの北朝鮮戦で日本が勝って、そちらの話題が盛り上がりすぎると、僕のネタなんか吹っ飛んでしまうのでしょうが、無事に放送の場合、「報道ステーション」は今夜10:20頃、「スーパーモーニング」は明朝09:00頃の登場ということになりそうです。


 お時間のある方は、見てやってくださいまし。

 『反米の世界史』予告編(4)

 こないだ、日本とバハレーンのサッカーの試合があったと思ったら、明日はタイで北朝鮮との試合があるそうで。僕はサッカーにはほとんど全く興味がないので(まぁ、サッカー切手の原稿を書けとでもいう依頼がどっかから降ってくれば、その瞬間から、にわかサッカーファンになるくらいのことは、朝飯前の芸当ですがね)、多分、明日の試合もろくに見やしないのですが、それでも、物書き稼業という商売柄、世間様の話題についていく努力だけは怠らないつもりです。


 北朝鮮といえば、2001年に『 北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国 』なんて大それたタイトルの本を書いてしまってからというもの、僕の仕事の中では結構、大きなウェイトを占めるようになっています。当然、ああいう国ですから、強烈な切手が多くて(不謹慎な言い方をすれば)なかなか面白いのですが、今回の『反米の世界史』でご紹介したものの中では、こんなの(↓)が“お気に入り”です。


 北朝鮮のアンチ・ニクソン切手


 この切手は、1969年9月、「“アメリカ帝国主義”に反対するジャーナリストの国際会議」(なるものが開催されたんだそうです。はい)を記念して発行されたもので、「ペンは剣より強し」の言葉の通り、ジャーナリストのペンという銃剣で、核兵器を傍らにした当時のアメリカ大統領ニクソンがやっつけられているデザインになっています。左側のシンボルマークは、世界各国の(肌の色の違う)ジャーナリストの腕が一つのたいまつ(ペン先は怒りと正義感で燃えている!)を掲げ、団結している様子を表現しています。切手の下のほうには、ご丁寧に、ずたずたに引き裂かれた星条旗まで転がっています。国家の名前で発行する公式の切手で、ここまでやってくれると、主義主張への賛否は別として、ある種の潔ささえ感じられます。


 北朝鮮では、この切手以外にも数多くのどぎつい反米切手を発行していますが、近刊の『反米の世界史』でも、もちろん、その代表的なものをご紹介しています。あわせて、同書では、第二次大戦から朝鮮戦争の終結にいたるまでの、アメリカと朝鮮半島との複雑なドラマについても、かなりのスペースを割いて、切手や郵便物に刻まれた痕跡をたどっています。


 6月16日、講談社現代新書の一冊として刊行予定の『反米の世界史』、是非、ご一読いただけると幸いです。


 香港と軍票

 この数週間、抱え込んで難儀していた『歴史群像』の仕事が、ようやく、片付きそうです。今回のお題は軍票。19世紀のヨーロッパの話を冒頭に紹介した後、日本に関しては西郷札から太平洋戦争までを概観する内容です。その中から、切手の背景にも深く関係するところで、香港の話を簡単にまとめて書いてみることにします。


 第二次大戦中、日本軍の占領下に置かれていた香港では、住民は日本の軍票を使うことが強制され、香港ドルは所有さえしてはならないということになっていました。


 日本の戦争が中国大陸にとどまっていた時期は、日本軍は各種の工作(大雑把にいえば、一種の“通貨介入”が中心になります)を行い、中国国民政府の通貨である法幣に対して軍票の価値を維持しようとしていました。しかし、戦時インフレの進行により、日本側は大陸での軍票の価値維持工作を断念。1943年3月いっぱいで、中国の華中・華南地区での軍票の使用を取りやめました。


 その後、中国大陸で使われなくなった大量の軍票は、そのまま、香港に流れ込みます。太平洋戦争開戦後の占領地域では、中国大陸と違い、日本軍は軍票の価値を維持するための工作を全く行いませんでした。このため、ただでさえ、占領下の戦時インフレに悩んでいた香港では、猛烈なハイパー・インフレが発生します。その結果、たとえば、郵便料金一つとっても、1942年の占領当初には封書の基本料金は4銭でしたが、1945年4月には3円にまで暴騰してしまいます。このため、急いで郵便料金に相当する切手を発行しなければならなくなった占領当局は、日本から持ち込んだ切手に新料金に相当する金額と“暫定”ならびに“香港総督部”の文字を加刷(すでに発行されている切手の上から文字などを印刷すること)した切手を発行しました。


香港加刷カバー


 今回、ご紹介しているのは、その加刷切手が実際に貼られたカバー(封筒)です。戦争末期の1945年7月30日、香港から上海の赤十字国際委員会宛に差し出されたものです。同封されていた手紙の使用言語や名宛人の国籍が明記されているのは、防諜上の理由から、そのような記載が義務づけられていたためです。


 さて、香港の軍票は、日本の敗戦により一文の価値もない紙屑となりました。これに対して、占領下で軍票の使用を強要されていた香港住民の一部は、戦後、日本政府に補償を求める訴訟を起こしていますが、最高裁で住民敗訴の判決が確定しています。


 今回の仕事では、軍票がお題ということで、香港のインフレを物語るこのカバーを記事に登場させる余裕はありませんでした。ただ、仕事の副産物として、いままで、なんとなくあやふやに分かったつもりになっていたこのカバーや加刷切手の背景について、一応の知識を整理することができたのは、それなりの収穫だったと思います。


 今日の文章は、その記録の意味で書いてみました。

 『反米の世界史』予告編(3)

 まだまだ、このブログの使い方をよく分かっていないのですが、とりあえず、メッセージボードを使うと日記とは別に、ページのトップに文章や画像を入れられることが分かりましたので、去年の11月に刊行した『切手と戦争:もう一つの昭和戦史』(新潮新書)の宣伝を入れてみました。やはり、戦後60年という現在のタイミングで、一人でも多くの方に読んでいただきたい本ですから…。


 で、新書の常として表紙のデザインは規格モノでアップしても面白くありませんので、刊行時に編集部の方が作ってくださったPOPを画像として載せています。ただ、POPの画像では、使われている絵葉書がいまいち見づらいので、今日は、その表裏をアップしてみました。(下の画像です)


三国同盟絵葉書      絵葉書裏面


 この絵葉書は、ムッソリーニ時代のイタリアの独裁与党、ファシスタ党が作成した軍事郵便用のもので、日独伊三国の旗を背景に、日本を象徴する鎧武者が軍艦を叩ききっている場面が描かれています。軍艦を良く見てみると、ユニオンジャックと星条旗が掲げられており、三国同盟をバックにした日本が太平洋で“鬼畜米英”をやっつけるというイメージが表現されています。鎧武者の格好が、なんとなく、イタリアっぽくお洒落なの感じなので、僕のお気に入りの1枚です。なお、この葉書が差し出されたのは1943年5月。バドリオ内閣による降伏は同年9月のことでしたから、イタリアの敗色がかなり濃厚になっていた時期です。


 6月16日に刊行予定の『反米の世界史』では、日本中で“鬼畜米英”が叫ばれていた時代を中心に、20世紀初頭から太平洋戦争を経て1960年の安保騒動にいたるまでの日米関係の歴史を、この絵葉書をはじめ、さまざまな切手や郵便物などでたどっています。ご一読いただけると幸いです。


 『反米の世界史』予告編(2)

 全世界の人民が団結し、抑圧された人々・民族の解放を目指して戦う“共産主義”の総本山であったソ連にとって、資本主義世界のチャンピオンであるアメリカの国内で人種差別が深刻な問題となっているということは、イデオロギー宣伝の面で、格好の宣伝材料でした。


 ソ連の葉書


 今日、ご紹介している葉書(↑)は、そうした視点から1932年にソ連が発行したものです。葉書の左側には、星条旗を背景に縛り首にされた黒人(アフリカ系アメリカ人)と、その周囲で気勢をあげるカウボーイ・スタイルの白人男性が描かれています。当時のアメリカの黒人差別が、往々にして、黒人に対する残虐な暴力行為を伴うものであったことを告発する意図が込められているのは言うまでもありません。


 6月16日刊行予定の『反米の世界史』(講談社現代新書)では、この葉書も含め、各種のプロパガンダ絵葉書などもご紹介しながら、東西冷戦を生み出していった米ソの歴史的な関係についても、説明しています。機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。