郵便学者・内藤陽介のブログ -18ページ目

 沖縄(中)

 今日は沖縄慰霊の日です。


 昨日は配達されなかった沖縄宛のカバーをご紹介しましたが、今日は、終戦直後の沖縄島内の郵便物をご紹介します。


 沖縄戦で完全に破壊された沖縄(特に沖縄本島)では、1945年9月に郵便が再開されましたが、料金は全て無料でした。これは、壊滅的な状況にあった沖縄本島では、現実の問題として貨幣経済を行うことが困難で、住民は米軍に労働力を提供して物資を得るという“無貨幣経済”が行われていたことによります。


 その後、1946年7月1日、有料の郵便制度が復活しますが、切手は使用されず、料金を収めたことを示す印が代わりに押されていました。下のカバーがその実例です。


 沖縄初期のカバー


 カバーには、(1947年)5月5日、1種(普通の書状のことです)、30銭などの数字が書き込まれ、具志川局の料金別納印が押されています。廃墟の中から沖縄の戦後史が始まったことを記録したマテリアルといってよいでしょう。


 明日(24日)から、東京・目白の<切手の博物館>(地図などはhttp://yushu.or.jp/museum/index.html をご覧ください)で開催の“立川憲吉・石澤司 沖縄切手コレクション展”でも、このカバーに類する戦後初期の沖縄の郵便物が多数、展示される予定です。是非、お運びいただけると幸いです。


 *なお、今回の展示には、このカバーは展示されません。あしからずご了承ください。

 沖縄(上)

 6月23日は、沖縄慰霊の日。1945年6月23日、沖縄で日本軍が玉砕したことにちなむ日です。


 今年は戦後60年ということもあって、まさに慰霊の日に当たる23日には、(財)日本郵趣協会の元理事長で沖縄切手収集の大御所・立川憲吉さんと現在最も精力的に沖縄切手の収集・研究に取り組んでいる石澤司さんによる『沖縄1874-1972』も刊行されます。また、同書の刊行にあわせて、今週金曜日(24日)から3日間、東京・目白の<切手の博物館>では、“立川憲吉・石澤 司 沖縄コレクション展”も開催されます。(切手の博物館については、http://yushu.or.jp/museum/index.html をご覧ください)


 そこで、慰霊の日の23日をはさんで、今日・明日・明後日の3日間、このブログでも、少し沖縄の切手やカバーをご紹介したいと思います。“立川憲吉・石澤 司 沖縄コレクション展”にお出かけいただくときの予習を兼ねてお読みいただけると幸いです。


 さて、まずは、沖縄戦の終結に伴い、沖縄が“日本”から切り離されたことを象徴的に示すマテリアルです。


 沖縄宛のカバー


 1945年8月の終戦に伴い、日本から海外宛の郵便物は取扱停止となりましたが、同年11月、葉書に限って、まず、旧外地(ただし、当初はソ連占領地域は除く)などとの郵便交換が再開されます。


 そうした状況の中で、このカバーは沖縄宛に差し出されたものです。差出人の発想では、沖縄は“日本”の一部だったのでしょうが、アメリカ側はすでに沖縄を日本から切り離して自らの施政権下に編入する方針を固めていました。このため、占領当局の視点では、沖縄は、“日本”には含まれない地域であり、日本から沖縄宛の郵便物は“外国郵便(国際郵便)”ということになります。


 この結果、当時の規定では、日本から沖縄宛には、葉書の差出しか認められず、封書を差し出すことは認められないという結論が導き出され、このカバーもルール違反ということで差出人戻しとされてしまいました。なお、カバーには、「国際郵便通信トシテ許可セラレタルモノハ端書(=葉書)ノミナルニ付キ此ノ手紙ハ差出人ニ返送ス」との事情説明の付箋が付けられています。(今回は、付箋の文字をお読みいただきやすいように、画像を横向きにしました)


 いずれにせよ、苦難に満ちた沖縄の戦後史の原点が刻印されたカバーといってよいでしょう。

 旧南方占領地の戦後史(5・最終回)

 切手が原則として国家によって発行されるものである以上、主権の交代や政体の変更は、切手上にも大きな影響を及ぼします。たとえば、革命によって旧政権が倒れ、新政府が誕生すると、新政府は自らの存在をアピールするため、独自の切手(多くの場合、当初は旧政権の切手を接収して暫定的な加刷を施したものですが…)を発行されます。


 もっとも、新政権が発足したからといって、直ちに旧政権の切手を全面的に使用禁止にしてしまうのはいささか乱暴で、旧政権の切手を実際に所有している一般国民の理解を得られません。そこで、通常は、一定の移行期間を設け、旧政権の切手と新政権の切手がともに有効という過渡的な時期が生じるものです。


 さて、日本軍撤退後のビルマに関しては、イギリス軍政→イギリス支配下の民政→独立準備政府という手順を経て、1948年1月に正式な独立国家が誕生します。その独立初期には、こんなカバー(↓)も出現しています。


 ビルマのカバー


 このカバーは、独立後まもない1948年2月、ラングーンからスコットランド宛に差し出された書留航空便です。使われている封筒は、イギリス時代に発行された印面付のものですが、この印面は1948年2月の段階では有効とされています。また、右下の紫の切手は、独立準備政府時代に、イギリス時代の切手を接収して“独立準備政府”の文字を加刷したものです。さらに、その上の茶色の切手は、独立ビルマの切手で、アウンサン将軍(スーチーさんのお父上です)が描かれています。

 

 このように、このカバーには、イギリス・独立準備政府・ビルマ政府の3者の切手が並存しており、ビルマの戦後史のある部分が凝縮されたかたちになっています。こういう“歴史”を語る郵便物が、僕にとって非常においしい存在であることはいうまでもありません。


 さて、「旧南方占領地の戦後史」の中からのご紹介はこのくらいにして、明日からは、ちょっと話題を変えてみましょう。現時点では、まだ何も内容を決めていませんが、何かご要望などがあれば、コメント欄に書き込んでいただけると幸いです。


 旧南方占領地の戦後史(4)

 ワンフレーム展は無事に終わりましたが、引き続き、展示作品の中からのご紹介です。


 旧南方占領地のうち、太平洋戦争の終結後、血みどろの独立戦争に突入したインドネシア(旧蘭印)に対して、比較的スムースに独立を達成したのがフィリピンです。フィリピンの場合、1934年の段階で、すでにアメリカは10年後の独立を約束していました。これに基づき、終戦後の1946年7月4日、フィリピンは独立を達成します。


 ただし、独立後もフィリピンが親米国家としてアメリカの太平洋戦略において重要な地位を占めていたことに変わりはなく、米軍基地の駐留もそのまま続いていました。


 そうした米比関係を象徴するかのように、1948年2月3日、フィリピンはマニラ解放3周年の記念切手を発行。そのデザインに、“(フィリピンの)守護者にして解放者”という名目で、マッカーサーを取り上げています。ちなみに、マッカーサーの肖像が切手上に登場するのは、これが最初のことでした。


 マッカーサー


 さて、土日の展覧会では、そのマニラ解放3周年の記念切手の試刷(プルーフ)を展示しました。原版から直接、厚紙に刷ったもので、実際に発行された切手に比べると凹版彫刻の画線がシャープなのが嬉しいところです。いろいろ理屈をつけて、切手や郵便物の薀蓄を語っている僕ですが、単純にキレイな切手というのも嫌いではありません。


 さて、公式にはマッカーサーを“守護者にして解放者”と位置づけていたフィリピン国家ですが、本音では、アメリカも、日本同様、征服者でしかなく、けっして歓迎されるべき存在ではありませんでした。それが仮に名目的なものでしかなかったにせよ、日本軍の占領下でフィリピンが“独立”を宣言したこと、その際、大統領に就任したホセ・ラウレルが「誰もフィリピン人以上にフィリピンを愛せない」と語ったということなどは、植民地支配下の人間の屈折した感情の一端をうかがわせるものとして、重みがあります。


 それだけに、今回の切手に刻まれた“守護者にして解放者”という一節は、彼らにとっての“独立”の意味を考える上で、なかなか興味深いものに思えます。

 旧南方占領地の戦後史(3)

 昨日はボルネオ島の話をしましたが、今日は、そのボルネオ島の一部を含めて、オランダとの独立戦争を戦ったインドネシアのマテリアルをご紹介します。


 1945年8月15日に日本軍が降伏すると、インドネシアの独立運動の指導者であったスカルノは、同17日、すかさず旧オランダ領東インドを領土とする“インドネシア共和国”の独立を宣言します。これに対して、インドネシア独立を阻止したいオランダは、独立運動を武力で押さえ込もうとし、1949年12月まで続くインドネシアの独立戦争が勃発しました。


インドネシアのカバー


 この葉書は、スカルノの独立宣言から約1年後の1946年7月、スマトラ島のメダンで差し出されたものですが、日本の占領時代に発行されたものに“インドネシア共和国”の文字を加刷して使用されています。独立戦争前期の過渡的な状況をよく示しているマテリアルといえます。


 一方、葉書の左側に張られているのは、インドネシア共和国の支配下で発行・使用されていた切手で、スカルノの肖像なども見えます。押されているスタンプには、インドネシア語で“猛牛精神”のスローガン(?)と牛の絵、独立宣言の日付(1945年8月17日)などが入っています。詳しいことは調べ切れませんでしたが、独立に向けて国民を鼓舞する内容のものであると見て間違いないでしょう。


 インドネシアの独立戦争は、最終的に、1949年末、オランダがインドネシアの独立を正式に承認したことで決着しましたが、この間、4年以上にも及ぶ独立戦争により、インドネシアは多大な犠牲を払っています。その意味では、インドネシアにとっては、第二次大戦という一つの戦争の終わりは、まさしく、真の戦争の始まりになったといって良いでしょう。





 旧南方占領地の戦後史(2)

 昨日に引き続き、今日(18日)も「旧南方占領地の戦後史」の中からのご紹介です。


 ラブアンのカバー


 今回、ご紹介しているのは、1945年12月、ラブアン島(ボルネオ島北部の小島。日本の占領中は“前田島”と呼ばれていた)からオーストラリア宛に差し出されたカバーで、戦前発行の英領ノース・ボルネオの切手に“BMA”の加刷をした切手が貼られています。ご注目いただきたいのは、消印でモールス信号の形をしています。これは、この地域に進駐したオーストラリア軍が使用したものです。


 太平洋戦争というと、我々は日本がアメリカ・イギリスと戦った戦争というイメージを持ちがちですが、その“イギリス”の中身には、英連邦の一員としてのオーストラリア、ニュージーランドの人々が少なからず含まれていたことを見逃してはならないでしょう。実際、オーストラリア軍は、(米軍と比べるとかなり小数でしたが)敗戦後の日本にも進駐しており、日本との戦争において、英連邦内では重要な役割を果たしています。


 さて、ボルネオ島は、現在、いくつかの国が分割領有していますが、第二次大戦以前は、英領地域と蘭(オランダ地域)領地域に分かれていました。太平洋戦争中は両地域ともに日本軍に占領されましたが、終戦直後、とりあえず両地域に進駐して日本軍の降伏を受理したのはオーストラリア軍でした。その後、戦前の蘭領地域は、独立宣言を発してオランダとの戦争に突入したインドネシア領に組み込まれますが、それ以外の地域は、当面、英領にとどまり、イギリスの支配が復活することになります。

 旧南方占領地の戦後史(1)

 明日(18日)と明後日(19日)の二日間、東京・目白の<切手の博物館>(地図等はhttp://yushu.or.jp/museum/index.html をご覧ください)にて、(財)日本郵趣協会の登録審査員によるワンフレーム展(難しいことをいうといろいろあるのですが、まぁ一言で言えば、切手の専門家によるミニコレクションの展示会、とお考えください)が開催されます。


 僕は、この展覧会には「旧南方占領地の戦後史」と題する小品を出品します。内容は、太平洋戦争中、日本が占領していた東南アジア地域が、戦後、どのような歴史をたどったのか、切手や郵便物で見てみようというものです。


 10月末に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の全国切手展<JAPEX>で、戦後60年にちなみ、“1945年”という企画展示をやるのですが、今回の展示はその一部の試作プレビューです。


 で、展示用のディスプレイの形に加工した“作品”は、既に、郵趣協会の事務局に納めてしまったのですが、その中からいくつか、面白そうなモノを何日かに分けてご紹介していきたいと思います。

 

 第1回目の今日は、終戦直後のペナン(マレーシア)での航空郵便のカバーです。


 ペナンのカバー


 1945年9月、日本の敗戦に伴い、イギリスはマレー半島に再上陸し、軍政が施行されました。しばらくすると、終戦とともに一時停止されていた海外宛の郵便取扱も再開されますが、当初は必要な切手の配給が間に合わず、切手の代わりに、料金を収めたことを示す印を押して対応するということも行われました。このカバーもその一例で、1945年10月、ペナンからアイルランド宛に差し出されたものです。料金を納めたことを示すのは、右側の黒い印ではなく、その左の(残念ながら半欠けになった)赤い印です。


 封筒は、1937年のイギリス国王の即位の記念に作られたモノを引っ張り出してきて使っています。国王夫妻の肖像を掲げ、イギリス支配の復活を歓迎するという意思を差出人が示そうとしたものと思われます。


 インドネシアやフィリピン、ベトナム等と異なり、マレー半島の独立は、戦後間もない時期にはほとんど問題とされませんでしたが(マレー人が独立を望まなかったということではなく、イギリス側がマレーの独立について検討する気が全くなかったためです)、そうした状況が反映されたようなカバーといってよいでしょう。


 ちなみに、ペナンを含むマレーで、戦前の切手にイギリス軍政をしめす“BMA(British Military Administration)”の文字を加刷した新切手が発行・使用されるようになるのは、1945年11月以降のことでした。


 * 2005年6月18日(土)午前0時~6月20日(月)午前8時の予定で、システムのメンテナンスが行われるそうです。したがって、この間、お越しいただきました方には何かとご不便をおかけすることがあるかと思いますが、あらかじめ、ご了解ください。

 外国切手の中の中国・北朝鮮

 6月9日の日記にも書きましたが、現在、NHKラジオの中国語講座のテキストで、「外国切手の中の中国」という連載をやっています。明後日18日発売の7月号の現物が送られてきましたので、今日はその中から、こんなモノをご紹介したいと思います。


 方虎山


 これは、1952年6月、北朝鮮が発行した「方虎山将軍」の切手が貼られた郵便物の一部です。


 方虎山は、日本の植民地時代、中国で中国共産党とともに抗日活動を行い、中堅将校として中国で1945年の解放を迎えました。その後、国共内戦では中国人民解放軍にしたがって国民党と戦い、1949年に中華人民共和国が成立すると北朝鮮に帰国。朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の師団長になりました。


 朝鮮戦争の開戦後、方は米軍のディーン師団長を捕虜にするなど、目覚しい戦功を上げます。また、北朝鮮が国連軍に追い詰められて壊滅状態に陥った時に、中国の参戦で息を吹き返したことから、中国と関係の深い彼は、朝中友好のシンボルとして祭り上げられ、最高勲章の“二重英雄”の称号を与えられたほか、このように切手にも取り上げられています。


 しかし、朝鮮戦争の休戦後、金日成ら抗日パルチザン出身グループと、親ソ派(ソ連派)・親中派(延安派)との権力抗争が起こり、親ソ派・親中派が粛清されると、親中派のシンボルであった方も失脚し、中国に亡命せざるを得なくなります。そして、北朝鮮側は、方の切手を発行していた事実を隠蔽し、公式の切手カタログからは、その存在を抹消してしまいました。まさに、切手まで粛清されたわけです。


 もっとも、北朝鮮側が、方の切手の存在をどれほど否定しようと、彼らが実際に切手を発行し、それが郵便物に使われていたという事実は、ここに示したような“物証”によって明らかになるわけです。


 今回の記事では、このほかにも朝鮮戦争時の北朝鮮切手において“中国”が、どのように描かれているのか、詳しくご紹介しています。機会があれば、ご一読いただけると幸いです。


 * 『反米の世界史』が本日配本となるのに伴い、講談社のHPの中に、拙著の紹介ページができました。URLはhttp://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1497901 です。ブックマークにも追加しておきますが、お手すきの折にでも、一度アクセスしていただけると幸いです。

 『反米の世界史』予告編(8・最終回)

 昨日の日記でもお知らせいたしましたが、いよいよ明日(16日)、『反米の世界史』が配本となります。そこで、今日は最後の予告編として、サダムフセイン政権下のイラクの切手を1枚、ご紹介します。


 イラクの切手


 この切手は、2001年、湾岸戦争10周年を記念して発行されたものです。我々の感覚からすると、イラクは湾岸戦争で負けたということになりますが、フセイン政権によれば、「アメリカがフセイン政権を打倒できなかったコトを持って、イラクは負けていない」と説明されていました。

 

 さて、切手をみると、イラクを象徴する鷲が星条旗を引きちぎってイラク国旗を打ち立てているのが、まず、目につきます。もちろん、これはアメリカに対するイラクの“勝利”を表現したものです。


 鷲と並んで、左の上のほうにはエルサレムを象徴する“岩のドーム”が描かれています。これは、フセイン政権の掲げる“リンケージ論”と密接に絡んでいます。


 リンケージ論というのは、簡単にまとめると、次のような主張です。


 イラクは国連決議に従わず、クウェートから撤退しなかったがゆえに、懲罰として湾岸戦争で多国籍軍の攻撃を受けた。しかし、同じように国連決議を無視して、1967年の第3次中東戦争以来、ガザ地区とヨルダン川西岸を占領し続けているイスラエルに対して、国際世論は何も制裁を加えていないではないか。これは、明らかなダブル・スタンダード(二重基準)で、不当である。それゆえ、イラクを公平に扱うというのであれば、クウェートの問題とパレスチナの問題は、リンクさせて解決しなければならない。


 このリンケージ論は、もともと、国際的に孤立していたフセイン政権が、アラブ意諸国の支持を得るため、苦し紛れに発したものという色彩が濃いのですが、一向に解決の兆しが見えないパレスチナ問題に閉塞感を感じていたアラブ世界の一般国民の間では、一定の支持を獲得しています。そして、そうした一般国民の支持が、結果として、国際社会においてフセイン政権を支えていた一要因となっていたことも事実です。


 切手では、鷲の背後に緑色でアラブ世界の地図が描かれていますが、このことは、西側世界の押し付けたダブル・スタンダードに対して断固戦うイラクに対して、アラブ世界は支援を与えるべきだとの意味が込められており、上記のようなアラブ世界の世論をさらに喚起する狙いがあるものと考えられます。


 いずれにせよ、こうした切手が実際に郵便物に貼られて流通していくことで、アラブの人々の間に、アメリカを中心とした西側世界のダブル・スタンダードに対する不信感が醸成されていくことになるのです。


 『反米の世界史』では、この切手を含め、フセイン政権下のイラクの切手を多数取り上げ、この10年間のイラクから見たアメリカと国際社会の諸相を明らかにしています。


 是非一度、お手にとってご覧いただけると幸いです。


 “あかがね倶楽部”での講演

 今日は古河電工のOB会、“あかがね倶楽部”で講演をしてきました。題目は「切手の中の“昭和の戦争”」です。僕の父は、数年前にリタイアしましたが、古河電工とその関連会社に勤めていましたので、その線で来た仕事です。


 話の内容は、『切手と戦争』の話がベースになっていますが、1時間~1時間半という限られた枠の中で、あれもこれもと詰め込みすぎると収拾がつかなくなりますので、今回は“満州”がらみの話題に絞ってお話をしてきました。メンバーの平均年齢は70歳を超えていて(60歳代の僕の父は、会の中では“若造”だそうです)、ご出席いただいた方の中には、実際に旧満州での生活経験をお持ちの方も少なくなかったとのこと。そのため、こちらが思っていた以上に喜んで話を聞いていただけたようで、まずは安心しました。


 講演の前後に、倶楽部の理事長・金井泰三さんとお話したところ、意外なところで共通の知人(切手の関係者です)がいることを発見。また、金井さんは、1964年に開通し、記念切手にもなった太平洋横断ケーブル(切手の画像はhttp://kitte.com/catalogue/jpn19640619_01/ をご覧ください)の建設の直接のご担当者だったそうです。


 僕は、2001年から昭和・戦後期に発行された全ての記念・特殊切手(ただし、いわゆる公園切手と年賀切手は除く)について、網羅的な読む事典(<解説・戦後記念切手シリーズ>)を作っています。今年の4月には、1960年1月~66年4月の期間の全記念切手を対象としたシリーズ第3弾、『切手バブルの時代―五輪・新幹線切手に踊らされた頃 』(表紙のイメージは↓)を上梓しました。


バブル表紙


 この本では、当然、1964年6月に発行された「太平洋ケーブル開通」の記念切手の項目もありますが、地味な切手でたいした情報を盛り込むことはできませんでした。それだけに、同書の制作期間中に、金井さんにお会いできていれば、この切手の項目でもいろいろと面白いエピソードが拾えたろうに、惜しいことをした、という気分になりました。まぁ、書籍ってのは、だいたい、出した後でああすればよかった、という部分が出てくるものなのですが…。


 さて、『反米の世界史』の見本があがってきましたので、トップのメッセージ・ボードに表紙と帯の画像をアップしました。また、それに伴い『切手と戦争』のPOP画像はプロフィールの下に移動しています。7月後半、世の中が終戦特集一色になるまでは、しばらく、このスタイルにしようと思います。なんといっても、一番新しい本を一番アピールしたいですから。


 なお、『反米の世界史』の奥付上の刊行日は20日ですが、配本は16日ですので、今週末には店頭に並んでいるところも多いと思います。見かけたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。